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気ままなオジンが独断と偏見で神戸市内で見つけた、不思議や疑問に思ったことを勝手に書いています。

神戸で造られる、「灘五郷」のお酒がおいしいのは、なんで?

2022-04-21 13:50:16 | 地域情報

灘五郷のお酒がおいしいのは
なんで?



日本には、酒どころと呼ばれる「お酒の名産地」が多数あります。
しかしその中でも特に人気なのが我々の地元「灘の生一本」と呼ばれ
特に美味しいと言われる、「灘五郷」のお酒があります、そこでなぜ
「灘五郷」のお酒がおいしいと言われているのか調べてみました。
それには神戸阪神間には酒造りの条件に対して恵まれた環境がありました。

この図のように、背後にある六甲山系が大きく関係しています。
灘地方における酒造りの歴史は、古く1330年ころから行われいたようです。
しかし灘五郷のような形成になり発展したのは、江戸時代中期以降でした。
その要因は、良質な水、酒造に適した材料の米、高度な酒造技術などでした。



「宮水」とは、
六甲から湧き出る水に神戸ウォーターと呼ばれるものと宮水があります。
同じ六甲山系からの湧水でも、神戸ウォーターと宮水は違ったものです。
神戸ウォーターは六甲山地から花崗岩を通り濾過され湧き出た水で、
六甲山特有の花崗岩を通るため不純物が少なく、カルシュウムが多く含まれ
ミネラルバランスも良く、水の流れる距離も短く有機物を含まないために
「赤道を越えても腐らない、味が変わらない、世界一の名水」と呼ばれ、
外国船がこぞって神戸港に寄港し給水したと言われています。
これが「六甲のおいしい水」と言われている水です。
一方の、お酒造りに最適と言われている「宮水」は、
同じ六甲山地の水ですが、神戸ウォーターと違って、花崗岩でろ過された
伏流水が、さらに、昔は海底だった六甲山の堆積された貝殻層などを通り
リンやカルシュウム、カリュウムなどを多く含む硬水となり地下水で
井戸からくみ上げられた水です。この水はミネラルが麹菌や酵母の栄養分
となり酵素の働きを促すため酒造りに適した水で宮水と呼ばれています。
この「宮水」は、江戸時代の末期に山邑太左衛門が発見したと伝えられ
西宮市久保町に「梅の木井戸」があり、宮水発祥の地の石碑があります。


「山田錦」とは
お酒の原料となるお米ですが、酒造米の最高峰と言われている「山田錦」中でも
最適の気候・地形・水分と養分を含んだ土壌に恵まれた、兵庫県で生産される米は
「兵庫県産山田錦」と呼ばれ「酒米の王者」として量・質とも全国一を誇っています。
またこの種子を守り続ける人々の情熱があり、大粒で「心白」が大きく、
特に大吟醸の酒造りには最高の酒米として全国の酒蔵から求められ続けています。


「丹波杜氏」とは
酒づくりに携わる酒蔵で働く人たちは蔵人(くろうど)と呼ばれます。その中でも
特に責任のある、みんなを束ね酒造りの全責任を担う、工場長のような人は
「杜氏」と呼ばれ、優れた技術と長期にわたる経験と人望を持った人がいます。
その中でも丹波出身の杜氏は特に優れていて日本の三大杜氏の一つで「丹波杜氏」
と呼ばれていました。丹波地方は兵庫県の中ほどに位置し農業の盛んな地域です。
酒造りは寒い時期に行われるため、丹波の人たちは、晩秋の稲刈りを終えた後、
次の田植えの時期までの間、出稼ぎに灘の酒造りに来るのです。そして技術を磨き
後世に引き継ぎ灘の酒造りにその経験と技術が注がれていきました。

灘の酒造りににはこの三つのほかにも次のことが適していました。
「六甲おろし」
「六甲おろし」と言えばプロ野球の阪神タイガースの応援ソングですが、
六甲山地から浜側に向けて吹く北風を六甲おろしといいます。
この六甲山系から吹き降ろす寒風を、寒造り主体の灘の酒造りに
効率良く利用するために灘の酒蔵は『重ね蔵』という建築様式をとっていて
冬期には、北の仕込蔵は六甲おろしを直接受けて酒造に好適な低温となり、
年間を通してもっとも寒い季節を選び あえて低温下で醸造することで、
雑菌の繁殖を抑えて酒質をより一層高めることで、酒を旨くすることになり、
最適な気候だったこともあり、その名を一躍全国に広めることとなりました。

「水車」
灘が日本一の酒どころとして栄えた理由のひとつに、住吉川などの水車があります。
酒造りの原材料の酒造米は、足踏みで精米されていました。このため効率が悪く、
この作業にあたる、蔵人たちは皆より早く起きてこの作業をしていました。
六甲山から流れ出る川は、山と海との距離が短いため急流でした、その流れを
利用して水車が設置され、水力により精米が行われるようになりました。
時間も長く大量に、酒造りに適した質の良い白米を作ることができたのです。
江戸時代から自然のエネルギーをうまく活用してエコな酒造りをしていました。

「樽廻船」
上方の江戸積み酒造業は近世初期から展開され、まず池田・伊丹等がその中心をなし、
元禄期以前の江戸積み酒造体制の中に灘酒造業はいまだ含まれていませんでした。
そして当時は、お酒を馬に載せて江戸まで運ばれていました。
以前から、波穏やかな瀬戸内海の大阪湾に面した地域の海運業は、
兵庫津や物資の一大生産地である、大阪、堺など盛んな地域でした。
灘でお酒造りがされるようになり、今まで陸路で運ばれていたお酒も
海に面した地の利を生かし、西宮にお酒専用に船で運ぶ廻船の問屋
「樽廻船問屋」ができて、大量に迅速に運べる海上輸送になって行きました。
船にお酒の樽だけを並べて載せるため樽廻船と呼ばれていました。
また、その際に樽の杉香が清酒に移り、熟成されることにより酒質も向上。
「灘の酒」は人気を得て、江戸後期には需要の8割を供給したと言われています。

このように、「灘五郷」で作られるお酒は、自然の地形や環境を得て
日本一旨い酒の酒造地となっているのです。


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