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田舎ぐらし(163)

 ー 漂 流 ー

 
   「 漂 流 」
        吉村 昭  新潮社

 「漂流」は四国・土佐の船乗りの体験を基に吉村 昭が書いたドキュメンタリー作品である。

 徳川10代将軍家治の治世。天明5年(1785年)2月、長平たち4人の乗った船は土佐・赤岡村にある藩の米蔵から米250俵を東方7里半(30キロ)の田野、奈半利村に届けようと赤岡を出、太平洋に注ぐ奈半利川の河口に向かった。
 河口で米を受け取りにきた川舟に積み替え、帰途についたところで北西の強風にあおられた。さらに黒潮の早い流れに乗った船は嵐に見舞われ、10日以上太平洋を漂流したあげく小さな無人島に漂着した。

 そこは八丈島からはるか南に下った鳥島という火山島だった。目立った植生はなく、アホウドリだけが島を覆いつくすほど生息していた。

 長平と源右衛門、音吉、甚兵衛はアホウドリの干し肉や卵を食べ、雨水を飲んで命をつないだ。そのうち手足の節々が痛みはじめ、自然、洞窟の中で身を横たえて過ごす日が多くなった。癪持ちの源右衛門は衰弱が進み、とうとう秋の初めに死んでしまった。次の年の夏になると音吉と甚兵衛が申し合わせたように干し肉が喉を通らなくなり、痩せてしまい、相次いで死んだ。長平はひとりになった。

 長平は自暴自棄になった。死んでしまおうと海に入ったこともあった。
そんなある時、音吉と甚兵衛はなぜ死んだのだろう考えた。そしてそれは洞窟に体を横たえて動かなかったせいだと考えた。
 以来、長平は磯に出て貝や海草を採り、アホウドリの卵の殻を割るとそれをいたる所に置いて雨水を受ける準備をし、アホウドリの毛をむしっては干し肉を作り、そうやって朝から夕方まで働いた。体を使うことが体力をつけることだと信じた。そのせいか音吉や甚兵衛のような異変は起こらなかった。

 3年後に大坂船の11人が漂着した。さらに5年後には薩摩船の6人が漂着した。長平は彼らに磯歩きを勧めたが言うことを聞く者は少なかった。

 結局、自分たちで作った船で八丈島に脱出するまでに漂着者総数21名のうち3分の一、7名が命を失った。
 長平の無人島生活は13年に及んだが、ある時、寝て過ごしたら仲間のように島に白骨をさらすことになると気づいたことが長平の命を救った。
 長平は八丈島と本土で所定の手続きを終えたあと郷里に帰り、嫁をもらい、子にも恵まれた。

 「体を動かせ」。
絶海の孤島でたった一人になった25,26歳の男の頭をよぎったことばである。一介の船乗りの頭にひらめいたこのおそろしく簡単なことばが230年の時を越えて今も目の前にある。

 

 

 

 
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