作中の場所について
1952年の夕張市内を撮影しているのですが、現在となっては当時の風景をまったく想像することもできません。
そこでブログ「あの頃の夕張を求め」で本作を取り上げた記事を参考にしました。今となっては失われた風景ですが、こちらのブログの解説を読むと、当時の風景が目に浮かぶようです。素晴らしいブログなので、ぜひご覧ください。
作中で、子どもたちが通う学校は東山中学校だったそうです。現在は取り壊されて残っていません。
夕張炭鉱労働組合の『労働運動史』によると、ラストシーンは社光ズリ山で撮影したとのこと。万字、大夕張などからも組合員が駆けつけての撮影だったそうです。
炭鉱住宅のシーンは、夕張市内での撮影らしいです。
『新夕張と共に』によると、夕張市内でロケハンしていた亀井文夫監督に【一番炭鉱らしい雰囲気をだせる住宅を探していたので、三区チの十一リの十一の十四戸建をみせた】との記述があります。作中で、この地区の炭住で撮影されたかどうかまでは書かれていませんでした。
夕張駅の近辺
現在はこんなカンジ。
炭住はすべて姿を消し、夕張駅も無くなってしまいました。それでも奥に高松のズリ捨て線だけは残っています。
撮影時の様子
いくつかの資料では、撮影前の様子も掲載されていました。それらの資料によると――
1952年9月21日に山田五十鈴ら俳優陣が続々と夕張へ到着。
9月26日に撮影を開始。
しかし、その撮影初日に、炭鉱会社から施設内での撮影を断られます。
というのも本作の脚本は、炭鉱会社の横暴を糾弾するという内容で、炭鉱会社にとって都合の悪いものでした。そんな内容のものを会社が認めるはずもなく、修正を求めました。
しかし亀井監督がそれを断ったため、会社が態度を硬化させて施設内での撮影を禁じ、電気設備などの使用も許可しかなったのです。
そこで、まずは初日に夕張駅のシーンを撮影、その後も屋外のシーンや、社光ズリ山でのラストシーンは撮れたようです。
しかし、坑内での撮影ができず、いたずらに滞在期間だけが延びていきました。
そして迎えた10月17日。この日から炭鉱では無期限ストライキに突入します。このストライキは63日間にも及び、これは後に「63日の無期限スト」と呼ばれることになります。
ストライキを予見していた撮影隊は、その前日に夕張市を離れて、釧路市の太平洋炭鉱へ場所を移して撮影を続行することとなります。
労働組合誌について
舞台が夕張市だったということもあり、夕張炭鉱の労働組合誌では、撮影前のやり取りも含めた記述があります。
以下の労働組合誌は国会図書館デジタルコレクションでも閲覧できます。
『労働運動史 : 創立十周年記念』夕張炭鉱労働組合
『夕張の火は消えず : 解散記念誌』夕張炭鉱労働組合
『新夕張と共に : 闘う炭礦労働者の記録』新夕張炭礦労働組合
中でも、夕張炭鉱労働組合の創立十周年記念誌は、撮影時期から近しいこともあってか、それなりのページ数を割いての記述がありました。上映会の会場についても会社と揉めた経緯なども書かれています。
後に発刊される労働組合誌も、本書をベースにしています。
新夕張炭鉱の労働組合誌『新夕張と共に』では、炭鉱住宅の解説の項では、本作のロケハンに来ていた亀井文夫監督の以下のようなエピソードもありました。
【一番炭鉱らしい雰囲気をだせる住宅を探していたので、三区チの十一リの十一の十四戸建をみせたら「今の時代にまだこんな長屋が残っていたのか」とびっくりした】
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