村上三千穂(むらかみ・みちほ)
明治32年~昭和12年。福岡県出身で、菊池契月に師事したあと、中原淳一ら共に婦人雑誌や少女雑誌の表紙絵や挿絵などを描き活躍しておりました。40歳という若さで亡くなった為に、幻の画家とも呼ばれております。
画風は古風で、王朝絵を思い浮かべます。それは、この絵本によって、いかんなく発揮されて、おります。雅な大和絵の世界です。
『昔々、若い漁師が、お母さんと二人で暮らしていました。漁師は大層、孝行な人で毎日、海へ出ては、魚を捕って暮らしをたてていました。今日も、お母さんに見送られて漁に出かけました。』
『漁師はいつものように、海に小舟を漕ぎ出して、あちら、こちらと釣りをして回りましたが、何故か、今日は一匹のお魚もかかりません。
「これではお家に帰ってもお母さんに何一つ、差し上げる事が出来ない。どうしたら、良いだろう」
と、がっかりして考えこんでいました。』
『おやっ、釣糸が、ピクピク動いて何かかかったようです。
「しめたっ」
漁師は急いで竿を上げました。針に、かかってきたのは、可愛い蛤です。
「何だ。こんなものでは、しょうがない。」
漁師は、舌打ちして捨てようと、しましたが、思い返して、船のなかに、置きました。』
『不思議な事に、蛤は、ずんずん大きくなって、船からはみ出しそうに、なりました。漁師は、呆気に取られて眺めていると、貝の中から、キラキラと目もばやゆい、金色の光が差しました。』
『そして蛤は、二つに割れて、中から、綺麗なお姫様が、現れました。漁師はびっくりして
「あなたは、どなたです」
と、尋ねました。するとお姫様は
「わたくしは、何処から来たのか、存じません。又何処へ行くかも分かりません。どうぞ哀れと、思し召して、あなたのお家へ連れて行って下さい」
と悲しそうに、言いました。』
『漁師は 船を岸につけて、お姫様を浜辺に、待たせておいて、お家へ帰りました。そしてお母さんにお姫様の事を、話しますと、お母さんは
「まぁ、おかわいそうに。早く家へお連れして、おもてなし申すがよい」
と、言いました。』
『漁師は直ぐに、お姫様をお連れしました。お母さんは、
「こんなところでも、良かったら、何時までも、いらして下さい」
と、優しくてお姫様を慰めました。すると、お姫様も
「どうぞお願い致します」
と、嬉しそうに頭を下げました。』
『貧しい漁師の家に、花のような天人が、現れたという噂が、国中に広まりました。すると、大勢の人々がぞろぞろと、拝みに来て、お米や麻を上げて、いきました。お米も、麻もみるみる、山のように、貯まりました。』
『お姫様は、溜まった麻を、みんな、糸に、紡ぎました。そして
「これから、機織を、織りますが、織り上がるまで、決して中を、見ないで下さい」
と、言って一間に籠って、トンカラ トンカラ 織り始めました。何処からか、見られない、娘が、来て、お姫様のお手伝いを、致しました。』
『機織を織り初めてから、二十八日目に、お姫様は
「さぁ、織り上がりました」
と言って、ニコニコして出て来ました。その織物は、漁師やお母さんが、見たことのない美しい不思議な、織物でした。お姫様は、
「これを都へ、持って行って、三千両で、売ってきて下さい」
と、漁師に言いました。
『漁師は 織物を持って、都へ出かけました。そして一日中買い手を、探しましたが、三千両という、値段を聞くと、皆、呆れて誰も買ってくれません。がっかりして帰りかけますと、向こうから、大勢のお供を連れた、立派なおじいさんが、やって来ました。』
『おじいさんは、漁師を呼び止めて、その織物を見て
「これは、珍しい織物だ。値段はいくらだ」
と、尋ねました。
「三千両でございます」
「それは、安い。買ってやるから、屋敷まで持って来い」』
『漁師は大喜びで、おじいさんの後に、付いて行きました。間も無く、目も眩むような、立派な御殿に付きました。何処からか、面白い音楽が、聞こえます。風もないのに、綺麗な花びらが舞落ちて、あたりに良い薫りを、まきちらしています。』
『漁師は、この立派な、御殿で、美味しいご馳走を頂いたり面白い、躍りを見せてもらったりして、手厚いおもてなしを受けました。』
『ご馳走がすむと、おじいさんは、家来に言い付けて、三千両のお金を、漁師の家に届けさせました。それから、手を挙げて、雲を呼び、ひらりと、飛び乗って南の空へ、光を放つて、飛んで行ってしまいました。
「やっぱり、只の人ではなかったのだ」
と、漁師は手を合わせて、拝みました。』
『漁師が家へ帰ってみると、お金はちゃんと届いておりました。お姫様は
「織物が売れて、結構でした。それでは、わたくしはこれで、お別れ致します」
と、と言いました。
「まぁ、何を仰る。これから楽しく、三人で暮らせると、思ってきましたのに」
と、漁師とお母さんはびっくりして、引き止めました。』
『「では、本当の事を申しましょう。わたくしは実は、観音様のお使いで、孝行なあなたへ幸せを授けに、参ったのです。もう、その用事も済みましたから、お国に帰ります。では、幸せにお暮らしなさいませ」
お姫様は、そう言って、空に舞い上がり、南の空へ飛んで行きました。』
『それからの、漁師は孝行で、親切なお金持ちと、皆から、敬われ、何時までも、お母さんと幸せに暮らしました。』
石井朋昌(いしい・ほうしょう)
『孝子万寿姫』は以前から、ちょくちょくとブログに載せてきましたが、今回は頑張って、絵本の全てを載せました。
石井朋昌は生没年不詳。挿絵画家として名高い鰭崎英朋の弟子でした。
石井朋昌口絵
画風はシロガネの目線で見ますと、狩野派かな~~と。これだけの画家が生没年が分からないとは残念です。この物語は室町時代に書かれたお伽噺草子では『唐糸の草子』と知られていますが、主人公は唐糸の娘の万寿姫です。
『唐糸は、木曽義仲の家来、手塚太郎光盛の娘です。女でもお父様に劣らぬ、忠義者で、義仲から、特別、大事に、されていました。唐糸には、万寿姫という、可愛い娘が、ありました。万寿は、若様のお気に入りで、毎日、お側を離れず、お相手をしておりました。』
『この頃、鎌倉にいた、頼朝と木曽の義仲と、だんだん仲が悪くなりました。義仲は誰かを鎌倉へやって、様子を探らせようとしました。それを聞いた、唐糸は
「この役目は、男より女の方が、良いと思います。私が参りましょう。」
と言いました。義仲は大層喜んで、唐糸を、鎌倉へ遣ることに、しました。
『唐糸の鎌倉へ立つ日が、近付いてきました。ある晩、万寿は、お母様の、鼓に合わせて、お別れの舞を舞いました。これが、長い別れになるかもしれぬと、思うと、唐糸の鼓にも、万寿の舞にも、何時にない、力が籠りました。」
『とうとう、出かける日が、きました。唐糸は、うちの人達に見送られて、お家を出ました。賢い万寿は、目にいっぱい、涙を溜めながら、
「お母様、ご機嫌よう」
と、言いました。それを見て、おばあ様も泣きました。乳母も泣きました。母の唐糸は、大事な役目を思い、じっと堪えて、道を急ぎました。』
『唐糸は、鎌倉に着くと、身分を隠して、頼朝の御殿に、住み込みました。ある時、頼朝の前で、琴を弾いて、大層、誉められました。それからは何時も、頼朝の、お側近くに、仕えるようになったので、これ幸いと、油断なく、様子を伺っていました。』
『ある日、頼朝は主だった家来達を、一間に呼び集めて、何か大事そうな相談を、始めました。唐糸は、こっそり、部屋の外に、忍び寄って耳を澄まして、聞くと、果たして、木曽義仲を、攻め滅ぼそうという、相談でした。さぁ大変、唐糸は、心配で、心配でなりませんでした。』
『女ながらも、唐糸はご主人に仇をなする頼朝を、自分の手で討ち取ってしまおうと、強く、心を、決めました。そして、義仲から貰った、短刀を懐に隠して、昼も夜も、頼朝を、付け狙いました。ある日、唐糸は、頼朝の、隙を見て、斬り着けました。』
『しかし、頼朝が、素早く、飛び下がったので、唐糸の短刀は届きませんでした。その前に、お供の武士や、腰元がたち塞がって、無念にも、唐糸は、取り押さえられてしまいました。頼朝は、落ちている、短刀を、拾い上げて、眺めました。確かに、見覚えのある、木曽義仲の短刀です。
「さては、この女は、義仲の、回し者だな」
頼朝は、心のなかでそう、気付きました。
『「この女を、石の牢へ、入れておけ。」
厳しい、頼朝の、命令でした。石の牢は、重い罪人を、入れる所です。そこへ、入れられたら最後、何時出られるか、分からないのでした。可哀想に、唐糸は、武士たちに、追い立てられて、冷たい、暗い、石の牢屋のなかへ、閉じ込められて、しまいました。』
『木曽の里では、万寿が、もう十二に、なっておりました。鎌倉へ行った、懐かしい、お母様の事を、一日も忘れた事は、ありません。雨が降っても、思い出しました。風が吹いても恋しがりました。
「お母様、どうぞ、ご無事でおられますように。そして、早く御用を済ませて、お帰り遊ばすように」
鎌倉の方を、向いては、一心に、お祈りするのでした。」
『ある日、乳母の更科が、外から、顔色を変えて、戻って来て
「旅人に、聞きましたら、お母様は、鎌倉で、石の牢に、入れられているそうでございます」
と言いました。毎日ご無事を祈ってきたのに、何という、悲しい、知らせでしょう。万寿は、ワッと、声を挙げて、泣き伏してしまいました。
『万寿は、可哀想な、お母様を、直ぐにも、助けに行きたいのでした。そこで、おばあ様に
「どんな、辛い事でも、我慢しますから、私を、鎌倉へ、やって、下さい」
と、毎日、お願い致しました。とうとう、おばあ様も、その熱心に負けて、お許しに、なりました。万寿は、乳母の更科と、一緒に、鎌倉へ、旅立ちました。』
『幾日も、かかって、二人はようやく、鎌倉に、着きました。まず、鶴岡八幡宮にお参りして、
「どうぞ、お母様が、無事でいらっしゃるように、そして、一日も早く、居所が、分かりますように」
と、小さい手を、合わせて、祈りました。』
『お母様を探すために、万寿は更科と一緒に、頼朝の御殿に、仕えました。木曽にいるときは、お姫様でしたのに、今では、辛い、召し使いの、身分です。でも、お母様のためと、思うと、少しも、辛くはありません。どんな仕事も、嫌がらずに、働くので、みんなから、万寿、万寿と、可愛がられました。』
『十日、二十日と経ちましたが、一度も、一度もお母様の噂を聞きません。万寿は、
「もしかしたら、お母様は、もう、お亡くなりに、なったのではないかしら」
と、ある晩、更科に、そう言って、涙ながら、こぼしました。
「お気の弱い。何年かかっても、お母様を、探すと、仰った事を、お忘れですか」
と、更科はわざと、叱るように言いました。』
『ある日、万寿は、裏の松葉をかきに、参りました。すると、林の中に、石の門が、ありました。連れの人が
「ここから、中へ入っては、なりません」
と言います。
「何故でしょう」
と、尋ねると
「あの中には、石の牢屋があって、唐糸という、悪い女が、押し込められているのです」
と、答えました。それを聞いた、万寿の驚きと、喜びは、どんなだったでしょう。』
『四五日過ぎました。御殿ではその日、お祝いがあったので人々は、早く、休みました。万寿と更科は、その晩こっそり、松林の中に、忍び込みました。神様のお助けでしょうか、門の扉が、少しばかり、空いていました。万寿は、更科を見張りに立たせて、月明かりを頼りに、中へ、入って、行きました。』
『万寿は、ようよう、石の牢を、見付だしました。戸口に駆け寄ると、
「誰じゃ」
と、中から尋ねます。
「お母様、万寿でございます」
格子に、顔を押し付けて、叫びました。
「えっ、万寿とは、木曽の万寿かえ」
「はい、一目、お母様に、会いたさに、はるばる、訪ねて参りました」
「まぁ、夢では、ないかしら」
親子は、嬉しさ悲しさが、一度に込み上げて、手を取り合って、泣くばかりでした。』
『万寿は、とうとう、お母様を、探し当てました。それから、乳母の更科と二人で、人に隠れて、牢屋へ、訪ねていっては、お好きな、食べ物を、入れて上げたりお話をして、慰めて上げたりしました。そのせいでしょうか、お母様も、段々、元気になられました。そうしておるうち、いつか、新しい、お正月を迎えて、万寿は、十三になりました。』
『その春、頼朝は、鶴岡八幡宮へ舞を、納めるので、十二人の舞姫を選びました。十一人までは、ありましたが、後、一人が、ありません。すると、万寿がよいと、いうものが、ありました。頼朝が、万寿を呼び出して、ご覧になると、なるほど、品の良い、綺麗な娘です。頼朝は、喜んで、万寿を、舞姫に、加えました。』
『いよいよ、舞の日となりました。更科は、万寿に、舞の支度をしてやりながら、
「お姫様。お母様を、石牢から、救いするには、お殿様のお気に入る事が、第一でございます。他の姫たちに、決して負けてはなりません」
と、励ますのでした。
「ありがとう、ばあや。わたしお母様のお為と思って、一生懸命、舞ましょう。」
と、万寿は答えました。』
『舞が、始まりました。頼朝を始め、何千人とも、知れない、見物人が、みんな、息をつめて、見ております。その中で、一番、二番、三番と順々に、舞が進みました。五番目に、舞台に、現れたのは、万寿でした。目も覚めるような、着物を着て、金の扇を右手にかざし、静かに、舞始めました。その美しさ、可愛らしさ。見物人は、思わず、目を見張りました。』
『静かな、音楽の音色につれて、鈴を振るような、美しい、万寿の歌声が、広間の、隅々にまで、響き渡りました。それと一緒に、ある時は、花に遊ぶ、蝶々のように、ある時は、湖に浮く、カモメのように、舞続ける、万寿の姿に、人々は、瞬きせず、うっとりと、眺めていました。』
『その時、思いがけない事が、起こりました。正面の席に、見ていた頼朝が、いきなり、扇ををかざして、万寿と一緒に、舞始めたのです。頼朝は、万寿の舞が、余り、上手なので、つい、誘われて、舞出してしまったのでした。乳母の更科は、遠くから、それを見て、嬉し泣きに泣きました。』
『あくる日、万寿は、頼朝の前へに呼ばれて
「何でも、望みのものを、褒美をやろう。お前の国は何処で、親は何という」
と、優しく尋ねられました。万寿は、堪えに堪えてきた、悲しさが、胸に、込み上げて、思わず、涙にむせびながら、自分の身の上を、申し上げました。そこで
「ご褒美には、どうぞ、お母様の唐糸を、許しください」
と、言いました。
『頼朝は、万寿の孝行に感心して、直ぐに、唐糸を、石の牢から、出してやりました。親子二人が、抱きあって、嬉し泣きに、泣きました。頼朝も、そこにいた、家来達も、皆、貰い泣きを、しました。お母様が、許されたばかりではありません。頼朝は、
「孝行のご褒美です」
といって、万寿に、たくさんの、お金や、品物を与えました。
『万寿の、お母様思いの心は、とうとう、お母様を救いだしました。やがて万寿はお母様と、乳母の更科と三人連れで、御殿の人達に見送られ、懐かしい、木曽の里へ目指して、帰って来ました。空は綺麗な、日本晴れ。どこかで、小鳥が鳴いていました。』