神奈川県高校指導の中で日本史を必修とすると報道された。今の世情を考えると若者が自国のことを知らな過ぎると言われるが、我々の高校時代から同じ風潮があった。すでに30年以上もたっている。かたや英会話の教育は無。日本語教育も無。今度は社会? 私の持論は、基本は国語だと思う。英語を話せないで、欧米ですばらしい日本人と言われている有名人は数限りないほどいる。過去に新渡戸稲造も内村鑑三も、そして日野原先生も、皆はじめは英語でのコミュニケーションをとれなかった。がやがて一言二言話せるようになってから急速に親交は深まった。なぜ?彼らが基本的に深く国語を知っていて自論を駆使してかれらに日本を伝えようとする能力があったからだろう。それに欧米人が感動したからに他ならない。それはそうだ。英語が話せても今の欧米人から‘三島由紀夫は知っているか?金閣寺を読んでどう思ったか?多神教の仏教をどう感じるか?’などと質問されて答えられるだろうか?会話の手段が糸電話であろう、インターネットであろう、手紙であろうとも結局会話の中身であって手段ではない。
さてそこで日本史だ。日本史は日本語や日本のことを学ぶ上で歴史である。信長が戦っているときがあったのだと説明してもそれが世界のどんな時代に位置するかをしならなければ信長研究で終わる。 年号暗記しても、信長が(信長秀吉家康の年齢差はちょうどうちのダンゴ3兄弟や高橋家のダンゴ3兄弟のような年齢差だよね。)、戦った時代にスペインではフェリペ王がいて(フィリピンという国名の由来)今映画で話題のエリザベートがいて、イギリスがスペイン艦隊を破ったからこそ世界におけるスペインからイギリスへと時代が変わって行く。 ルターなどの宗教改革が起きたからカトリック教会のあせりからザビエルなどを東方へ派遣させた。あれがプロテスタント教が日本に上陸していたなら、きっと大きな歴史感が変わったのでは?などと世界の中の日本を知る事が世界の人々と対等に話ができるだと知る。
NHK出版のジェイムズ C.デイヴィス著 ‘人間ものがたり’や中央公論新書から出版されている‘マコニールの世界史’は、全国の高校にも置いてほしいすばらしい世界史だ。欧米人が書いた世界史には、日本の記述が本当に微々たるものだが、欧米人が捉える世界史から見た日本史という研究をもっともっとやってほしい。地理分類や時代分類ではなく、もっと項目をほりさげて宗教という項目だけの世界史日本史の研究とか、切り口が変わればすばらしいものがみえてくるだろう。
いいくにって1192年だっけなんて学問が何になるのだろうか?と万人hが考えてる。