今度の日曜日、テアトル新宿で若松孝司監督の‘実録連合赤軍’の映画を観る予定だ。昔からこの人は、赤軍内部を知る人物として有名な人だったから、暴走した彼らをどうやって描き出すのか、とても興味がある。
60年安保で全国の大学が揺れに揺れて、日米安全保障条約が、結局締結をみると急速に学生たちは静まり返った。ところが、いろんな場所でくすぶっていたのだ。 たとえば大阪では68年~69年には大阪府立高校で学校封鎖があった。私の知り合いの先生の母校で、府高連(ふこうれん)と名乗っていたのだが、一般市民からは‘親不幸連’と呼ばれたそうだ。
さて私は九州の田舎の高校出だが、この火花が私の高校にも来たのです。 70年の私の高校入学式の日は、とんでもない一日だった。正門から壁まで赤ペンキや黒スプレーで落書きされ、入学式も大騒動の中、(在校生のアジ演説によって式の進行が妨害された)時間も短縮されてやっと終了する。 入学後は毎回大荒れの生徒集会。遠足、運動会、生徒会すべてがボイコットされて中止。時には偽の投票用紙をつかまされての生徒会選挙無効投票事件と次から次へと騒動の発生。そして勉強するでも部活するでもなく早々と帰宅する生徒たちが裏門わきで紛争運動に入れようとする上級生徒らとのいざこざ。
運悪く2年次に生徒会議長になった私は、彼ら運動家のかっこうの標的にされた。(当時、生徒会は議長副議長のたった二人だけだった)毎日帰宅途中で彼らに襲われ詰めより議長辞退から生徒会開催ボイコットへの要求へと吊るし上げられた。
有名な浅間山荘事件の中継中、授業中でありながら私は一人職員室に呼ばれ、生徒指導の先生らに今後のことで議論というか、時にはテレビの画面を指差し‘我々教師は彼らをこんな事件を起こす卑劣な人間にしたくないんだ!議長の君は絶対に学校側に付くべきなんだ!’と説得工作にかかる。窓からみえる向かいの校舎の踊り場でズラリ紛争に夢中な上級生たちが私の方をにらめつけている状況を一人、体を硬直させながらおどおどしていた自分の姿を思い出す。これらの経験がおよそ35年以上の人生の思い出場面のワースト1で宿る後日談となるのだ。
皮肉なことにあの上級生らの内、過激だった3人が、ここ横浜国立大学に入学した。田舎の母校創立始まって以来の珍事だった。それもそうだろう、なんで九州から横浜国立大学めざすの?わずかの学園紛争の火の粉みたいなものに触れたかったのだろうか? 昨年、東京での高校同窓会にこの3人は医者や弁護士になっていると聞いた。3人とも国大を中退して他大へ行ったらしい。 今振り返ると、彼らの言わんとする中には合点がいくところもあったと思うが、結局、当時を振り返って大きな問題にならなくて良かったと教師らが語るところをみるにつけて‘おらが町の小さなできごとだった’と回想するほどで良かったと感じる。
若さというのは、それだけで想像絶するほどのパワーの源になることが多い。でもそのパワーは、おおむねあまりにも無謀な衝動と強引なティーラー(舵取り)によって自分の希望するスピードや方向にコントロールできないことが多い。自分だけが夢想家になって言葉だけが走り、頭でっかちとなっていく嫌いがある。やはり誰か一人でも大人の意見を取り混ぜることが必要だと思う。 何でも相談できる他人の大人を持つべきだ。そういう点でBS活動でのコミュニケーションは誰も持たない特権だと思う。