心を癒す聖書の言葉 ~ 足立花畑キリスト教会ブログ ~

心が疲れてしまったあなたへ、聖書の言葉をお届けしたい… そんなブログです。

名もなき普通の人たち

2023年08月07日 | ◆聖書の言葉

『彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。』(使徒の働き12章13-14節)。聖書の中には主を愛し、そして人を一生懸命に愛した人たちが、たくさん登場します。もちろんアブラハムは信仰の父です。その息子イサクも、孫のヤコブも、モーセも、エリヤも、ボアズも、ダビデも、ソロモンも、パウロも、ヨハネも、ペテロも、母マリヤも、もちろんみんな偉大な信仰の先輩であり、聖書の中の有名な人たちです。でもキリスト教会2000年の歴史は、そうした有名で立派な人たちだけで紡がれてきたわけではないのです。いえ、むしろ、名もなき普通の人たち、ロデさんのような普通の信仰の人々によって、その出会いによって織りなされてきた時が、ほとんどすべてなのです。
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愛を取り戻す為に

2023年07月04日 | ◆聖書の言葉
「なんで私だけが」「なんで俺だけが」という思いが引き金になって、自分の命を大切にしなかったり、誰かの命を大切にできなかったりする事件が、後をたちません。「自分の事なんか誰も分かってくれない、だから自分も他人も、もうどうなってもいい」と、自暴自棄なって犯罪を犯し逮捕され、挙句は「無敵な人」なんてゆう悲しいレッテルをマスコミに「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」に付けられて。でもひとりひとりの人生は、そんな簡単なものではないはずです。本当はあなたはひとりぼっちなんかじゃない。でも世の中の人はみんな、その事を知りません。ほんとうは「私のその苦しみを、私のその悲しみを知るために、私以上の苦しみを自ら進んでお受けになった方がいたんだ」と自暴自棄になってしまった人が知っていたら、そこにはもっと違う生き方があったはずです。『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』(ヘブル人への手紙12章2節)。イエス様は一度あなたが離してしまったその『愛を取り戻す為に』苦しみの道を歩み、そして十字架にかかられたのです。
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種蒔く神の御思い

2023年06月05日 | ◆聖書の言葉
『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。(マルコの福音書4章12節)。「種を蒔く人のたとえ」は、しばしば種を蒔かれる側の人の心の状態の話しとして語られます。しかし実はこの「種まきのたとえ」の視点は、蒔かれる側の人の心「四つの地」の方ではないのです。ではこの「たとえ話し」の視点、中心はどこにあるのでしょう。実はこのたとえ話しの中心は「四つの地」でもなく「種」でもないのです。実はこのたとえ話しの中心は「種蒔く人」なのです。収穫の効率を問うなら、道ばたや、岩地、いばらの中に、種を蒔く人なんていないでしょう。あなたが実のならない土地に種を蒔いている人を見つけたとしたら、きっとあなたはその人に「ちょっと種がもったいないから、そんなところに蒔くのは、やめなさい」と注意するのではないでしょうか。ところがこの「たとえ」の人は、良い地、だけではなく問題のあるその他三つ土地にも、多くの種を蒔いているのです。そうです、この種蒔く人は、悪い土地にも期待をしているのです。もう、お気づきですね、この「たとえ」話しの中心は、四つの地でも種でもなく、種蒔く人つまり、種を撒かれるお方、神が中心となる「たとえ」なのです。蒔いておられるお方、神はそのあわれみと愛のゆえに、そうですすべての人にまったく同じよい種を蒔かれ、そしてすべての土地の収穫を期待されたのです。やがて実を結ぶのはあなたです。しかし豊かに実ったその実を収穫するのは、あなたではありません。その実を収穫するのは、種を蒔いた主人、つまり神であるということです。
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後になって考えてみると

2023年05月11日 | ◆聖書の言葉
友人とは自分を助けてくれる人、敵とは自分の邪魔をする人、とその時はそう思うかもしれません。でも「後になって考えてみると」その友人の甘い言葉、甘言(かんげん)で道を踏み外し、その敵の邪魔を乗り越えたからこそ立てる今の場所があったりもします。苦難にあえば心は折れそうになり、時には孤立無援でその状況を恨むかもしれません。しかしそれが主の訓戒であり、その苦難を乗り越える力と希望もまた、あの時、主が与えてくださったのだと「後になって考えてみると」わかる時もあります。愛する人を失った心の痛みは、もう世界が滅びてしまってもよいと思うほどであったとしても、神がその悲しみの心に触れてくださり、なぐさめてくださっていた事を知る時、あの時があったからこそ今の自分の信仰があると「後になって考えてみると」そう思う時だってあるのです。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ人への手紙8章28節)。喜びの出来事はもちろんですが、その時は自分にとっては好ましく思えなかった悲しみの出来事すら、イエス様の心を深く深く知るための出来事だったと、「後になって考えてみると」気づくこともあるのです。
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見よ。あなたの神を。

2023年04月05日 | ◆聖書の言葉
今、あなたの現実がいかに厳しくとも、たとえ八方ふさがりの行き詰まりの状態であったとしても、イエス様を信ずる者にはもうすでに、天においての祝福が注がれています。かつては罪の中に生きる者であったとしても、イエス様の十字架と復活を信ずる者は、罪、贖われ、赦され、そして天において祝福が注がれたているという、もうひとつの現実がそこに存在するのです。そのもうひとつの現実を見つめて生きる、それがクリスチャンの生き方であり、そこには見える現実だけに明け暮れる人々には、見つけることも、見ることもできない、希望と、喜びと、恵みと、平安が、あるのです。この世のものに目を奪われ、人の声に耳を奪われやすい私たち。しかし、見るべきものはこの世ではなくイエス様であり、聞くべきものは人の声ではなくイエス様のみ言葉です。イエス様から目を離し、状況だけに目を向ければ、私たちの信仰も沈み込んでしまうのも、こんな時代ですからしかたないかもしれません。しかし、そんな弱いあなたのことを、すべて知っておられる主は、そんな時代だからこそ、こんな時だからこそ、復活されよみがられたイエス様への思いを、もう一度、あなたの心に、あなたの霊に、あなたの魂に、熱く燃え立たせたいと願っておられるのです。それはイエス様を見上げる信仰です。停滞していた信仰が「息を吹き返し」「生き返り」「よみがえり」、そして、今も生きておられる主と共に、再び今を、生き生きと生きる、信仰です。そうです、主は今あなたにこう言われておられるのです。もう一度、「見よ。あなたがたの神を。」(イザヤ書40章9節)と。
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