心を癒す聖書の言葉 ~ 足立花畑キリスト教会ブログ ~

心が疲れてしまったあなたへ、聖書の言葉をお届けしたい… そんなブログです。

種蒔く神の御思い

2023年06月05日 | ◆聖書の言葉
『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。(マルコの福音書4章12節)。「種を蒔く人のたとえ」は、しばしば種を蒔かれる側の人の心の状態の話しとして語られます。しかし実はこの「種まきのたとえ」の視点は、蒔かれる側の人の心「四つの地」の方ではないのです。ではこの「たとえ話し」の視点、中心はどこにあるのでしょう。実はこのたとえ話しの中心は「四つの地」でもなく「種」でもないのです。実はこのたとえ話しの中心は「種蒔く人」なのです。収穫の効率を問うなら、道ばたや、岩地、いばらの中に、種を蒔く人なんていないでしょう。あなたが実のならない土地に種を蒔いている人を見つけたとしたら、きっとあなたはその人に「ちょっと種がもったいないから、そんなところに蒔くのは、やめなさい」と注意するのではないでしょうか。ところがこの「たとえ」の人は、良い地、だけではなく問題のあるその他三つ土地にも、多くの種を蒔いているのです。そうです、この種蒔く人は、悪い土地にも期待をしているのです。もう、お気づきですね、この「たとえ」話しの中心は、四つの地でも種でもなく、種蒔く人つまり、種を撒かれるお方、神が中心となる「たとえ」なのです。蒔いておられるお方、神はそのあわれみと愛のゆえに、そうですすべての人にまったく同じよい種を蒔かれ、そしてすべての土地の収穫を期待されたのです。やがて実を結ぶのはあなたです。しかし豊かに実ったその実を収穫するのは、あなたではありません。その実を収穫するのは、種を蒔いた主人、つまり神であるということです。
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後になって考えてみると

2023年05月11日 | ◆聖書の言葉
友人とは自分を助けてくれる人、敵とは自分の邪魔をする人、とその時はそう思うかもしれません。でも「後になって考えてみると」その友人の甘い言葉、甘言(かんげん)で道を踏み外し、その敵の邪魔を乗り越えたからこそ立てる今の場所があったりもします。苦難にあえば心は折れそうになり、時には孤立無援でその状況を恨むかもしれません。しかしそれが主の訓戒であり、その苦難を乗り越える力と希望もまた、あの時、主が与えてくださったのだと「後になって考えてみると」わかる時もあります。愛する人を失った心の痛みは、もう世界が滅びてしまってもよいと思うほどであったとしても、神がその悲しみの心に触れてくださり、なぐさめてくださっていた事を知る時、あの時があったからこそ今の自分の信仰があると「後になって考えてみると」そう思う時だってあるのです。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ人への手紙8章28節)。喜びの出来事はもちろんですが、その時は自分にとっては好ましく思えなかった悲しみの出来事すら、イエス様の心を深く深く知るための出来事だったと、「後になって考えてみると」気づくこともあるのです。
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見よ。あなたの神を。

2023年04月05日 | ◆聖書の言葉
今、あなたの現実がいかに厳しくとも、たとえ八方ふさがりの行き詰まりの状態であったとしても、イエス様を信ずる者にはもうすでに、天においての祝福が注がれています。かつては罪の中に生きる者であったとしても、イエス様の十字架と復活を信ずる者は、罪、贖われ、赦され、そして天において祝福が注がれたているという、もうひとつの現実がそこに存在するのです。そのもうひとつの現実を見つめて生きる、それがクリスチャンの生き方であり、そこには見える現実だけに明け暮れる人々には、見つけることも、見ることもできない、希望と、喜びと、恵みと、平安が、あるのです。この世のものに目を奪われ、人の声に耳を奪われやすい私たち。しかし、見るべきものはこの世ではなくイエス様であり、聞くべきものは人の声ではなくイエス様のみ言葉です。イエス様から目を離し、状況だけに目を向ければ、私たちの信仰も沈み込んでしまうのも、こんな時代ですからしかたないかもしれません。しかし、そんな弱いあなたのことを、すべて知っておられる主は、そんな時代だからこそ、こんな時だからこそ、復活されよみがられたイエス様への思いを、もう一度、あなたの心に、あなたの霊に、あなたの魂に、熱く燃え立たせたいと願っておられるのです。それはイエス様を見上げる信仰です。停滞していた信仰が「息を吹き返し」「生き返り」「よみがえり」、そして、今も生きておられる主と共に、再び今を、生き生きと生きる、信仰です。そうです、主は今あなたにこう言われておられるのです。もう一度、「見よ。あなたがたの神を。」(イザヤ書40章9節)と。
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主の御声に聞き従う者に

2023年03月09日 | ◆聖書の言葉
サムエルはエリの息子たちの神を恐れぬ悪行に対する主の裁きを、その父親であるエリに語らなければならないという重責を全うしました。それは主の声に聞き従う者として、私たちが見習うべき信仰者の姿です。でも当時はそれが本当に主からの声なのか、そうではないのかは信仰によってでしか見分ける事ができませんでした。そう考えると今が本当に恵みの時代であることがわかります。なぜなら現代の私たちには、印刷された聖書が、主の御言葉が、ひとりひとりに与えられているからです。私たちの信仰の基準は聖書です。『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』(コリント人への手紙Ⅰ-1章18節)。それはイエス様を信じない者たちにとっては、愚かな言葉に聞こえるかもしれません。しかし主を信じる者たちにとっては、それは救いを受ける神の力なのです。あなたに直接、主が語られたと思えた時、天使を通して語られたと思えた時、聖霊の示しを通して語られたと思えた時、ああ今、私は神様の御声を聞いたかも、と思った時には、どうか迷わずにすぐに聖書にその答えを求めてください。主は必ず主の御声に聞き従う者に、真実を、真理を、祝福を、そして恵みと平安を与えてくださるお方なのですから。
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歴史の主権者を信じ生きる

2023年02月10日 | ◆聖書の言葉
『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。』(マタイの福音書24章35節)。偽りや異端が、国家が、闇の勢力が、どんなに強くとも、真理はそれらよりも長く生き続けます。真理を隠し、迫害し、侮辱し、撲滅しようとしても、真理は決して、滅びません。敵が、誰であれ、何であれ、いつもでも神が勝利されてきたことは、聖書がそして歴史がそれを証明しているのです。神は混迷から秩序を、不信仰から信仰を、絶望から希望を、死からいのちを引き出されるお方なのです。『いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それはイエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者はイエスのために絶えず死に渡されていますが、それはイエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。』(コリント人への手紙Ⅱ-4章10-11節)。あなたは自分という壊れやすい土の器の内に主がおられることを信じていますか。あなたは何によっても壊せない宝イエス様のいのちと光を持っていますか。
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