友人とは自分を助けてくれる人、敵とは自分の邪魔をする人、とその時はそう思うかもしれません。でも「後になって考えてみると」その友人の甘い言葉、甘言(かんげん)で道を踏み外し、その敵の邪魔を乗り越えたからこそ立てる今の場所があったりもします。苦難にあえば心は折れそうになり、時には孤立無援でその状況を恨むかもしれません。しかしそれが主の訓戒であり、その苦難を乗り越える力と希望もまた、あの時、主が与えてくださったのだと「後になって考えてみると」わかる時もあります。愛する人を失った心の痛みは、もう世界が滅びてしまってもよいと思うほどであったとしても、神がその悲しみの心に触れてくださり、なぐさめてくださっていた事を知る時、あの時があったからこそ今の自分の信仰があると「後になって考えてみると」そう思う時だってあるのです。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ人への手紙8章28節)。喜びの出来事はもちろんですが、その時は自分にとっては好ましく思えなかった悲しみの出来事すら、イエス様の心を深く深く知るための出来事だったと、「後になって考えてみると」気づくこともあるのです。
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