心を癒す聖書の言葉 ~ 足立花畑キリスト教会ブログ ~

心が疲れてしまったあなたへ、聖書の言葉をお届けしたい… そんなブログです。

御国の相続者として生きる

2022年01月09日 | ◆聖書の言葉
新年あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。今年の教会のテーマ聖句は『何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。』(コロサイ人への手紙3章23-24節)です。
イエス様は自分を貧しくしてご自身のいのちを私たちのために差し出されました。そのイエス様を信ずる者は主キリストに仕えている者なのです。イエス様に仕える者は、何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からすることができます。しかしそれをするにはきっと戦いもあるでしょう。でも心配しなくていいんです。なぜなら私たちにはその戦いを共に戦う信仰の友がいます。そして御霊も私たちが主キリスト・イエスに従うりっぱな平和の兵士としての責任を全うできるように、私たちひとりひとりを助けてくださいます。そしてなによりも私たちが「御国の相続者」であることが私たちを力強く励ましてくださるのですから。
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クリスマスにイエス様を思う素敵な夜

2021年12月11日 | ◆聖書の言葉
イザヤ書9章には『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』とあります。今から約2700年前、イエス様がお生まれになる700年前に、イエス様のご降誕がイザヤという人によって予言されていました。マタイの福音書1章にはその方が『インマヌエル(神は救い)』と言うお方であるとあります。クリスマス、華やかイルミネーションやクリスマスソングは心がウキウキして楽しくなります。でもちょっと静まってしばしイエス様のお名前の意味などを黙想してみるのも素敵なことではないでしょうか。
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あなたの渇きを潤される方

2021年11月08日 | ◆聖書の言葉
人はみなサマリヤの女のようにたましいの渇きに苦しんでいます。戦争によって人のものを奪っても、詐欺によって膨大なお金を手に入れても、あらゆる方法で自分の渇きを潤そうとしても、それを手に入れた瞬間に、それが自分のたましいを潤さないことに気付き愕然とするのです。『イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネの福音書4章13-14節)。イエス・キリストが与えてくださるいのちの水だけが、乾いてひび割れたあなたの心を潤すことができるのです。
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あなたには、見えていますか?

2021年09月30日 | ◆聖書の言葉
『私の神は、キリスト・イエスにある栄光の富をもって、あなたがたの全ての必要をすべて満たしてくださいます(ピリピ人への手紙4章19節)』。神様は私たちから何かを得ようとするお方ではありません。与えても、与えても、けっして乏しくなることのない、栄光に富んだお方なのです。あなたの心細さを慈しみ、それをかわいそうに思い本当に必要なものをあなたにお与えくださる方なのです。それは時には私たち人間の側から見れば不公平な取り扱いに見える時もあります。ですが神様の側から見れば実はすべて理にかなったことなのです。神様のこころを通してでなければ見えないものがあります。逆に言えば神様のこころを思う時にだけ見えてくるものがあるのです。『あなたには、見えていますか』ここにおられる神は、あなたの主であり、栄光に富み、無限にやさしいお方である、ということが。
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神様の奥義

2021年08月31日 | ◆聖書の言葉
初臨のイエス様はその十字架と復活によって「個人の救いのため」に来られました。そしてやがて来られる再臨のイエス様は「御自身の王国を樹立させるため」に来られます。ですから聖書から「個人の救いのみ」を受け取るならイエス様が再臨される必要はありません。人は死んで天国に行けば良いだけのことです。『兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う(ローマ人への手紙11章25-26節)』。教会を理解することがイスラエルにとっての最後の奥義となり、イスラエルを理解することが教会にとっての最後の奥義となるのです。
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神様の絶対

2021年07月31日 | ◆聖書の言葉
神様にはふたつの“絶対”があります。それは「神様は約束を絶対に忘れない」と「神様は約束を絶対に成就させる」です。この二重の絶対によって神様は私たちにご自身の威光と権威をお示しになるのです。それは同時にあなたの救いの約束がどれほど“絶対”なものであるかの保証でもあるのです。『私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました(コリント人への手紙第2-1章21節)』
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クリスチャンライフの本当の意味

2021年06月30日 | ◆聖書の言葉
恵みを増し加えるために、罪にとどまるというのは、奔放に生きたい人の屁理屈であり、こじつけです。よごれたものを洗うと、気分がよくなるので、そのために、わざとよごす、というのは、愚かな事であることは、誰にでもわかります。主の恵みは、主のみことばに従おうと努力する時、その大きさを知ることになるのです。「元々私はこういう人間なんですよ」と言うのは、言い訳に過ぎないのです。イエス様の死にあずかるバプテスト(洗礼)は、この世と罪に対しては葬儀であり、教会と神に対しては誕生日のようなものです。それは父なる神に従って、よみがえられた御子キリストと共に新しい命に生まれ変わった日なのです。イエス様の死にあずかるなら、イエス様の復活にも与かります。“クリスチャンライフの本当の意味”は、すべてそこにあると言っても、言い過ぎではないのです。『また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです(コリント人への手紙Ⅱ-5章15節)』。
※パソコンが壊れアップが遅くなりました。申し訳ありません。
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唯一無二の力

2021年05月31日 | ◆聖書の言葉
人々は口々に言います。国と国はいつまで乱れ騒ぐのか、と。この宗教戦争は、未来永劫続くのだ、と。しかし聖書は言います。それはやがて終わりを迎え、神の御国が到来すると。その終わりの日ひとりでも多くの人が救われ、神の御国へと結ばれることができるように、私たちは、主の愛を伝えてゆかなければなりません。それでも私たちが自分のタラントを用いようとした時には、そこには多くの試練や困難があります。なぜならこの世には、悪が蔓延しているからです。そうした中で信仰者であるあなたの記憶はとても大切なものとなります。イエス様に救われたあなたの人生、その信仰の経験と神の臨在を経験した記憶は、人生の重荷に打ち勝つことのできる、唯一無二の、力なのです。『しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国々の人々がみことばを聞くようになるためでした』(テモテへの手紙第Ⅱ-4章17節)
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窮屈な人生からの脱出

2021年04月30日 | ◆聖書の言葉
信仰を持つ前の私は神の愛をまったく知りませんでした。ですからその行いはまことに自分勝手で、どれだけの人を傷つけてきたかと思うと時には死にたくなる時さえありました。しかしそんな時も、神は私を愛し続けてくださったことを知り、ある日、私はビジネスホテルの一室で、主にひざまずいてたったひとりの部屋でこれほど涙がでるものなのかというほどに、とめどなく流れる涙をもってイエス様の愛の前で悔い改めの祈りを捧げていました。その時から私はその神様の愛の恵みを受けその十字架によって罪ゆるされ、そのイエス様の流された血によって洗い清められ、主と共に生きる者とされたのです。そう思えた時、自分の悪い行いによって神様が悲しまれるようなことをするのはやめようと、ごく自然に思い行動できるようになったのです。それは“きまりを守る人生”から“イエス様の心に寄り添って生きる人生”へと変えられた瞬間でもありました。『あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。』(コリント人への手紙第Ⅱ-6章12節)。神があなたを制約と窮屈から解放してくださいます。それは十字架のイエス様によってどんな人にも与えられるものなのです。
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復活のイエス様に出会う時

2021年03月31日 | ◆聖書の言葉
イエス様は“聖書が示す通りに”私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられました。それは聖書の御言葉、神の御言葉は、つまり旧約聖書の預言はすべて、“必ず成就”するということなのです。私たちが旧約聖書を学ぶ意味はここにあります。そのイエス様のよみがえりの事実を前にして、私たちは初めて聖書に書かれている内容がこれからも成就していくことを、信仰によって信ずることができるのです。死人の復活?「いやいやいや、それはないでしょう」と現代の人々も、そして当時の多く人々も、イエス様の“復活”を信じませんでした。しかしパウロは、イエス様が死んで復活されたことは、数多くの証人たちによって、それが確かな事実であることを、証明してゆきます。

コリント人への手紙Ⅰ-15章5節
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
コリント人への手紙Ⅰ-15章6節
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
コリント人への手紙Ⅰ- 15章7節
その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
コリント人への手紙Ⅰ-15章8節
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私(パウロ)にも、現れてくださいました。

そうです、イエス様は、いつも変わらぬ愛をもって、ご自身を表してくださるのです。
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神のタイムテーブル

2021年02月28日 | ◆聖書の言葉
耐えがたい苦難や試練は、どんな人にだって、一度や二度、あるでしょう。いじめや、病気、事故や、災害、会社が倒産したり、お店がつぶれたり、大切な人の死や、信じていた人の裏切りを前にして、「もう死んでしまいたい」「もうどうでもいいや」と、人生を投げ出したくなる時、もあるでしょう・・・。人生には山もあれば谷もあります。時には疲れ切り「もう進むことができるかわからない」と思う時もあるでしょう。聖書預言は夢物語の慰めではなく「現実」です。その中でも終末預言は霊的であり象徴的ではありますが文字通り物理的に成就します。私たちが丹念に聖書を調べる理由はそれらが確かであることを私たちが確信するためです。生きる希望は聖書の中にあります。その希望は復活の主に再臨の主にそしてその信仰の力を与えてくださる御霊にあります。苦難の中にあっても絶望せずに生きるためには、自分の人生を自分の力でコントロールしようとするのではなく、正しいコンパスに従って自分の人生を神へと向きなおらせることです。イエス様は『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』(ヨハネの福音書14章6節)と言われました。イエス様は『わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』(ヨハネの福音書14章6節)とも言われました。主への道へと向きを変えた時、自分のことすら責任が持てず、その場に立ち止まってしまっていた弟子たちが聖霊の力を受け地の果てまで出て行き、キリストの証人として再び歩みはじめたのです。それは止まりかけていた「あなたのタイムテーブル」の針が・・・再び動き出す瞬間なのです。なぜなら今もあなたと共に生きておられるイエス様の『神のタイムテーブルは』どんなことがあっても、決して止まることは、ないからです。
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神は必ず約束を守られる

2021年01月31日 | ◆聖書の言葉
神は必ず約束を守られます。神とノアとの契約も、神とアブラハムとの契約も、シナイ山で神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた契約も、神とダビデとの契約も、そして私たちがイエス様を信じた時に与えられた新しい契約も、すべて神は必ず守られるお方なのです。旧い契約は破棄されたのではなく更新されたからこそ、今ある約束も信じて大丈夫だと私たちは信じることができるのです。『見よ。その日が来る。──主の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ』(エレミヤ書31章31節)
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あなたを栄光から栄光へと変えてくださるお方

2021年01月01日 | ◆聖書の言葉
2021年はあなたにとってどんな年になるのでしょうか。『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(コリント人への手紙Ⅱ- 3章18節)。御霊の助けと導きだけが、暗く壊れた人生に回復をもたらします。御霊はあなたの霊の目に掛かっていた「おおいを取り除き」認識の自由を与えてくださいます。御霊によってイエス・キリストに導かれた者は、あらゆる霊的戦いに勝利できます。イエス・キリストの御霊と歩むあなたは、罪と死の力から解放されます。それは本来の生き方人生の回復であり、それは罪と死に対する完全な勝利であり、それは霊的な自由の獲得であり、それは昔の契約の限界からの解放です。それら御霊なる主の働きによる回復と勝利と自由と解放は、単なる回復ではなく、単なる勝利でもなく、単なる自由でもなく、そして単なる解放でもない、イエス・キリストの御霊によって顔のおおいを取りのけられ、主の栄光を仰ぎ見て心を新たにされた者に与えられる、この地上のすべての栄光をはるかに超えてあなたを「栄光から栄光へと」変えてくださるお方の御業の結果なのです。今年一年が、あなたにとって「栄光から栄光へと」変わる一年と、なりますように。
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ご自身の喜びと祝福を与えてくださる主

2020年12月31日 | ◆聖書の言葉
イエス様が私たちに務めを与えられた目的は、私たちが個人的に幸福になるためだけではありません。『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。』(エペソ人への手紙4章13節)いえむしろそれは、聖徒が奉仕の働きをして、キリストのからだである教会を、一致をもって建て上げるためである、と聖書は語ります。教会とは建物や制度のことではありません。そこに集うおひとりおひとり、つまりあなたが教会である、ということです。その教会は真理の柱、また土台です。信仰はイエス・キリストを知る知識からはじまります。イエス・キリストに関する知識の一致がなければ、教会は互いに、愛をもって助け合うことできません。そして「知識」の一致がなければ、やがて教会に、分裂を生じさせることにもなります。主はこの事を悲しまれます。主の悲しまれる道を選ばない為には、更に主に喜ばれる信仰生活をおくるには「信仰の知識の一致」が重要である、ということなのです。教会に集い続けることの意味はここにあります。救いは無条件にイエス・キリストを信じた時に与えられます。それは決して変わることのない完全な救いです。しかし聖書はそこだけに、そのことだけに留まり続けることを、良しとはされていません。「信仰」によって「成長」しなさい、と語られている箇所は、聖書の中に数えきれないほどにあります。それは私たちが「未熟な子ども」から「完全なおとな」に成長することを、主が期待されているからです。親は子の成長を楽しみにしています。なぜなら子どもの成長は、親にとっての最大の喜びだからです。神も同じように、私たちの「神の子としての成長を」この上なく喜ばれるのです。そして主は更に“成長”から「成熟」を目指すことを望まれます。それはあなたが「キリストの満ち満ちた身たけにまで」達するためです。親は柱に子どもの背丈を書き記して、その子の成長を喜びます。しかしやがて成長期は終わりを迎え、背はそれ以上、伸びなくなります。しかしそこで人が完成されたのではありません。人はそこから次の段階「成熟」へと向かいます。人の成熟には終わりはありません。それは年をいくつ重ねても、いくつになっても「キリストの満ち満ちた身たけにまで」達するために、信仰と人格において成熟する、ということです。

さて、振り返って今年一年は、みなさんにとって、どのような年だったでしょうか・・・。

もちろんこのコロナウイルスによって、大変な一年であったことは言うまでもありません。しかし、災いや病を通して、主はいったい何を私に語りかけておられるのか、そのことを祈り、考えることができるのは、「おとなの信仰」を持つ者の、特権である、と言えるのではないでしょうか。なぜなら、信仰の「知識」を得、信仰者として「成長」し、そして信仰の「成熟」を目指す者に、主はご自身の喜びを、そして祝福をその人に、あふれるばかりに与えてくださる方なのですから。
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コロナ過で思うこと

2020年11月30日 | ◆聖書の言葉
現代において聖日を毎週日曜日に守ることはとても大変なことです。では仮に全国民が、日曜日をお休みしたとしたら、どうでしょう・・・。発電は日曜日は止まります。ですので電車は動きませんので徒歩で教会へ行きます。具合いが悪い人が出ても救急車の搬送は日曜は休みなのでできません。病院も日曜日はたとえ急患でも医師が全員休みなので命にかかわる状態でも手術はできません。更に凶悪な犯罪が起こっても警察官も全員日曜日はお休みなので捕まえられません。ですから犯罪は日曜になると増加してしまうかもしれません。もちろんこのコロナ過の中で日曜をお休みにしても多くの事はなんとか進むこともわかりました。しかし現代において日曜を完全に休むことはできません。すべての人が日曜日にお休みになると、へんな話し教会の電気も点きませんしエアコンなんてもっての他です。しかし一週間のどこかで、新しい一週間をはじめるために、主の御前に静かに進みでて、主の御言葉に耳を傾けることは大切なことでしょう。現代においてそれはある人にとっては月曜日かもしれませんし、ある人にとっては木曜日かもしれません。いずれにしても、その日は、あなたが、罪の中から贖われて、新しい人生が与えられたことを感謝する日であります。『どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物を主にささげなさい』(レビ記23章25節)。イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放されたように、私たちも罪の世から聖別され罪の奴隷から解放された日、罪贖われた日として、それまでの人生から新しい日へと移されたことを感謝をする一日を謙遜に持つことは、どんな捧げ物や善行よりも神に喜ばれる事、なのです。
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