私たちの望むものは 岡林信康 歌詞付CD版
1970年代、フォークの神様として一世を風靡する
岡林信康の歌を初めて聞いたのは、沖縄ヤンバルの山深きオオシッタイという作られた村のプレハブ小屋だった。
作られたというのは、別段オオム真理教みたいなものではなくて、思いを共有する人が集まって作られたという意味だ。
源河川の細い山道を上り詰めたところにたつプレハブ小屋はまだあるのだろうか。すでに30年前の懐かしい記憶、
58号線を北上、源河入り口の看板を入って川沿いを走った。
車一台がやっと通る細い道をひやひやしながら進んでいくと オオシッタイがある。
そこには、自給自足、沖縄の自立を求めて、人が入れ代わり立ち代わり入ってはきえていった。
80年代、有機農業運動と共同体づくりがブームになっていた。
山深いオオシッタイの記憶
大学を中退した。
行く当てもなかった。
誰も知らない人ばかりの地で自殺しようと思ってたどり着いたのが沖縄だった。
今でもそうだが、集団が苦手である。
長らくいじめられた記憶しかない僕は、生きることに絶望していた。
そこで知り合ったのがオオシッタイーーーーーーーーーーー
今から考えれば、自立とは何ぞやとかの議論はしていたものの、とどのつまりが大酒食らってけんかの連続だった。
岡林信康は、そこで暮らす人が酒を飲みながら聞いていた。
ぼくも知らない間に歌うようになった。
私たちの望むものは、と膝まづく僕をヤンバルクイナが不思議そうに見ていたような気がした。
沖縄は平和であるべきだ。
琉球として誇り高くあるべきだ、
アニミズム―自然崇拝と武器を持たぬ島として、沖縄はあるべきだ。
人間の住んでいる島として、平和の島であるべきだと、大阪のドヤにいてもそう思っている。
懐かしい記憶、
岡林信康を久しぶりに聞いて今でもそう思っている。
何が豊かで、何が貧しいのかがわからなくなった時代の中で、コンビニで鶏のから揚げを食いながら、貧しい生活をしていると実感する。
出来合いの弁当を食らうよりも弁当のほうがいい。
便利さ、コンビニはいらない。
不便でもいい。
否、不便だからこそ作る喜びがあって、喜びがあるから人生は楽しいのではないか。
帰らない時間に思いを馳せていると、たまにヤンバルのうだるような暑さの中を汗をかいて走り回りたくなる。