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四角い空...:鈴木彩子「この闇を越えて」で思うこと...

2020年08月08日 | その他(鈴木彩子,アマビエ様風味?,雑記など)
少し前に、 鈴木彩子「この闇を越えて」について書くことで、 あらためて 思ったこと・・・

大サビでの 歌詞の一節、というか、 元のメロディーから外れたところで語りかけるようなフレーズなので “台詞”の方が 近いのかもしれないが...
 四角い空を見上げてるよりも 自分の力ではばたいてみろよ
この“四角い空”という言葉は、 上手く表された言い方だと思う。

ネット情報でも、 テレビでも、 新聞・雑誌・書籍(教科書・参考書、辞典・辞書、解説書・図鑑、etc...)等でも、 色々なことを見るとか 学ぶとかの “知る”ことは できる。
でも、 「百聞は一見に如かず」というように、 リアル世界の実際に直接関わる以外での、 四角い枠の中で“知る”ことができるのは、 概要の中でも ごくごく断片的なものだけ。
これだけでは、 「百聞」でも「一見に如かず」なのに、“一聞”程度のものでしかない。
まぁ、 テストや クイズでの解答でなら、 そのレベルの知識でも、 名称や 文言が 間違いではなければ、 正解!として 解っているという評価になるのだろうが・・・

そして、 “百聞”以上の“一見”、 あるいは、 その先の、 リアル世界の実際に関わる“経験”を伴って知ることは、 それを 文字的に表せば 同じような単語が並んだ 似たような文面になっても、 そこにある 知っていることの実体は 根本的に違う。

リアル世界の実際には あるはずもない 四角い枠に囲まれた情報を復唱しているだけの 経験を伴っていない知識は、 表される文言自体は 間違いとまではいえなくても、 リアル世界の実際を知っている人には、 実質的には全く違うという位に 底浅く 薄っぺらにすぎないことが 容易に判っても、 当の自身は その実際を知らないので、 ちゃんと解っているつもりになっていがち。
そういう 四角い枠の中で見えるものを 並べるだけ、考えるだけで、 行動しなければ、 実際は 何も知ることもないままで、 何もできない。

そして、 ここでも 何度か “鳥”に関して “常識”とか“優れた知識”として蔓延している情報の 馬鹿げた実態を書いているように、 そもそも、 実際とは違うものが見えてしまっている面々だけで集って行われている “~~ごっこ”の設定すぎないものを復唱し合う醜態が 同類さん同士で称え合われて、 周囲にも 得意げに ご自慢の押し売りに励まれることで 垂れ流されている“迷信”も、 とても多い。
そういう“迷信”の殆どは、 正しい実際を知ることに 高度な知識や見識を必要とするようなものではなく、 興味・関心を持って見れば、 容易に 間違いに気付けるもの。
しかし、 “その世界”への関心が乏しい 一般の人は、 その検証をすることは まず無く そのまま 鵜呑みにしがち、 ・・・ あるいは、 更に間違った理解に化けてしまったり・・・
そのため、 そういう集いの外の 一般でも、 リアル世界の実際とは全く違う“迷信”が さも実際かのように語られ、 真に受けてしまっている面々の方が 大勢を占めてしまっているのも、 全く珍しくもなく、 どこにでも ありがち。

だから、 自身が行動することで、 本当のことを知り、本当のことをできるようになるのは、 大切なこと・・・、 だが・・・
そこまでなら、 そう難しくはないことも 多いのかもしれない。
なのだが、 実際問題では・・・

たとえば、 表向きは 自然の写真を撮っていると謳っているプロ写真家氏が選者を務めるコンテストでも、 実際の自然には実在しない、 ヤラセで創作された“不自然さが気持ち悪い情景”が、 “自然の美しさ”や “生態” “生息環境”など 門外漢には いかにも それっぽく見えるらしい 好まれがちな断片的な語句を並べただけの 不可解なご解説で 称えられたりしてしまったりする。

ありがちな ヤラセ写真・・・、 鳥写真でなら、 たとえば、 梅だったり 桜だったりが、 何故か 水辺の低い位置に 何故か ご都合良く1本だけ伸びて お花が咲いている枝に カワセミがとまっている、の図。
そこに写っている外側に、 どんな 梅の木、 桜の木があると思うのだろうか・・・
そのお花が 梅だ、桜だと 知っているというだけでは、 四角い枠に囲まれた 薄っぺらな知識でしかない。
実際に“自然写真”を撮っている写真家氏が、 梅の木、桜の木も知らないことが あり得るのだろうか?

当たり前すぎることを いちいち書くと 可笑しな話になってしまうが、 自然の写真を写すこととは、 その文字の通り、 自然を写すことだろう。

写っているものが 自然物だからといって、 何でも 自然の写真なのではない。
自然に向き合うこともなく、 自身が “神”や“創造主”になってしまって、 リアル世界の実際とは無関係な お伽噺のような 勝手な嗜好のご都合に合わせた、 リアル世界には実在しない情景を創作しているのでは、 自然の写真とは 本質的に 全く違うもの。

あるいは、 ヤラセ写真と 『合成写真』は 何が違うのか。
ヤラセ写真は、 『合成写真』が 撮影した後に『合成』で加工して改変する代わりとして 撮影する状況の側を ヤラセで加工して改変しているだけのことで、 リアル世界には実在していなかった“架空の世界の情景”を 作為を持って創作している趣旨の本質は、 『合成写真』と同じだろう。

しかし、 こういう、 当たり前すぎること、簡単すぎることは、 それが解らない面々となると、 むしろ、 当たり前すぎること、簡単すぎることほど、 どんな説明をしたところで 理解できることは まず望めないもの。

ヤラセで創作した リアル世界には実在しない情景だけを どれだけたくさん写したところで、 自然の実際を知る機会はなく、 四角い枠に囲まれた知識以上の 実際を知ることも、 常識とされていがちでも 実際を見たことがあれば 知らないはずがない 簡単すぎる間違いに気付くことも できない。
でも、 そういう 同類さん同士だけで集って 自身が優れていることにして 称え合っているのでは、 実際は 何も解っていないことには気付けないもの、 ・・・というか、 気付けないこと自体に 気付くことはできない。
そして、 「撮影した写真を 後には改変していない」という点に すがりついているだけの、 ヤラセさん同士内での ご都合の論理を 得意げに 振りかざしてしまう・・・
これは、 また、 リアル世界に実在しない情景の写真には、 (実際を写した写真なら そもそも 必要ない) 正当性を印象付ける能書きを謳う必要に迫られて 雄弁になってしまうこととも 繋がっているだろう。
だから、 リアル世界の実際を知らない門外漢には いかにも それらしく見えるらしい単語を並べただけの 不可解なご解説が、 その都度 その都度 毎回毎回、 さも もっともらしく 賑やかに騙られ、 大多数を占める、 何時でも 何処でも 何でも ヤラセで捏造した情景を写すことを大前提としている 同類さんが 復唱し合い、 それが 真に受けられた “迷信”が作られる。
そして、 それを模しながら、 更に 勝手な嗜好が加わった より華美な情景の写真が創作され、 また それを模しながら 更に 華美に・・・ の 競い合いが 繰り返される。
そうして、 リアル世界の実際の自然への興味は乏しい面々の 勝手な嗜好に沿った情景が 実在することになってしまって、 何故か 自然にあるとされる情景の方が また更に 勝手な嗜好のご都合に より合うように “進化”していってしまう。

リアル世界に実在しない“自然の美しさ”の魅力とは 何なのだろうか?
リアル世界に実在しない“生態”が捉えられている魅力とは 何なのだろうか?

ヤラセで創作された “不自然な写真”が “自然”の写真かのように扱われることには、 他で喩えるなら、 実際の日本を知らない外国の人には ありがちらしい 間違った理解による嗜好に合わせた、 現代にも ニンジャや サムライが 闊歩している 架空の世界の情景を創作して、 それが 日本の実際かのように騙られるようなことに思える。

それと同じように、 前記の 自然写真を撮っていると謳っているプロ写真家氏も、 自然への 知識も経験も、 何もないに等しい・・・ というよりも、 本質的な根本から違うのでなければ あり得るとは考え難い言動に思える。
でも、 そんな 馬鹿げた醜態ほど、 大勢を占める 同類の ヤラセさんや 間違った理解をしている門外漢には 都合が良く、 むしろ 喜ばれ ありがたがられて、 実際とは あべこべに 優れた実績に化けて もてはやされてしまう、といった具合。

でも、 そういう類の 残念な現実は、 どこの世界にでも 多々あることだろう。

そういう おかしな世界と同類の愚者であることで 良い評価を得られれば善しとするのではなく、 もちろん、 おかしな世界と知りながら 同類の愚者に成り下がって 良い評価を得ようとするのでもなく、 本当のことを当たり前として “権力”的なものや “社会” “世の中”と表されるような 漠然とした大きなものに 関わっていくのは 容易ではない、というところが、 「この闇」の 本質だろうと思う。


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