自分での経験では 要因は違うのだが・・・
少々 前に、 鈴木彩子 「ミステリー~運命(さだめ)~」について書いたことで 思ったこと...
どこにでもありふれた、 特別に 「恵まれた家庭で 何不自由なく育った」といわれるほどでもない 「普通」の環境からでも、 世の中や 自身の思考が、 真に公平・平等とまでではなくても 概ねでは 極端に脱するほどではなく それなりには健全なことになっている世界観が、 当たり前の常識として見えているらしい。
でも、 その世界観は、 家庭が要因での「そうではない環境」の立場では 無数に経験する、 ありがちな言葉では 『偏見』『差別的』とか 『社会の歪み』と表されるような、 自身の能力や行動の実際とは無関係に 家庭面の「そうではない環境」を理由として科される不条理が連鎖する実際は、 根本的に 全く違いすぎていると感じる。
こういう部分は、 実際に経験していなければ、 断片的な それっぽい文言を ただ復唱して わかっているつもりになっていても、 その大きすぎる重さも、 そもそも それが何なのかも、 微々たる ほんの一端すら、 わかり、感じられることは まず望めないことを、 何かの機会がある度に痛感する。
そして、 『社会の歪み』の側にいる面々は、 他者の『偏見』『差別的』な言動や『社会の歪み』を批判していながら、 まさに自身こそが 同じ あるいは もっと歪んだ思考での 具体的な言動をしている矛盾にも 気付くことができないもの。
家庭面の「そうではない環境」を理由として具体的で直接的に明言されて 実際とは無関係な断定を勝手に決め付けられることは、 多くの教師も含めて 無数に経験している。
そういう勝手な決め付けの誤り(というか、 殆どの場合、 根本から全てが明確に矛盾して そもそも実在し得ない支離滅裂ぶり)を指摘する必要がある状況では、 具体的な事実を挙げてもなお、 その自身は、 『差別的』な思考が当然でいて 実際に それに沿った行動をしている現実を タテマエでは 社会的な美徳感に沿った健全なことにして 辻褄が合っていないまま暮らしていて恒常化した矛盾に気付くことはできず、 そもそも見てもいないのに 自身が見て確認した事実と称して詳細に語っているお噺が 実態の欠片も全くない虚構でしかないことも 自覚できない。
また、 その断定の根拠として 家庭面の「そうではない環境」を具体的で直接的に明言している事実も、 ほんの数秒前に その文言を自身が発したことから 自覚できない。
そのため、 また更に、 断定の根拠として 家庭面の「そうではない環境」を具体的で直接的に明言して 現実とは全く違うお噺を口走り続けることを 延々と繰り返すだけの、 “人”としての会話と呼べる関係そのものが成立することを望めるとは到底思えない 不毛な状況になるばかり。
そのため、 『社会の歪み』の側の面々は、 自身の言動に対する 自身のタテマエでは都合が悪い指摘を、 相手が「自分の殻の中に閉じ籠もっている」 「被害妄想」と決め付けがちのようだが、 現実は 完全なあべこべで、 それこそが 『自分の殻の中に閉じ籠もって』 自身のタテマエではご都合がよい『妄想』を積み重ねているだけのこと。
そして、 自身が『妄想世界』に閉じ籠っているだけの現実が理解できず・・・ というか、 自身こそが現実を見ようとすること自体から逃げ続けていながら、 わざわざ、 ありもしなければ、 明確に辻褄が合っていないのだから あり得るはずもないことを言い張り続けてしまっているから 馬鹿げた状況になってしまっているのに、 実際とは あべこべに、 自身が わざわざ作った不都合を相手の所為にして、 相手の誤りを正して指導してあげる正義感を振りかざして 更に『妄想』を口走っては 延々と ご勝手な虚構を積み重ね続けて、 ますます 正義感が勢いづいて・・・ の 醜態を晒し続けられる愚行に巻き込まれるのだから、 迷惑極まりない。
そんな風に、 むしろ、 全く違うことを わかっているつもりになっている面々、 そして、 より歪んだ思考で暮らしている面々ほど、 自身にはご都合が良い ご勝手な『妄想』を より多く積み上げて、 より一層に 良識者面してしまう。
そして、 そういう わかっているつもりの 支離滅裂な説法が喧伝されては、 それが ご都合が良い面々が群れ集って称賛して、 その周囲の面々も含めて なお一層の 良識者気取りに陶酔してしまう、 世の中全体での 馬鹿げた? 愚かな? 狂った? 大きな『妄想』の無限ループは とても根が深い。
そして、 これは、 別の例では・・・
(これまでにも書いてきたように、) 鳥関連での 頭数【あたまかず】では 圧倒的大多数を占める、 目の前にある現実の ありのままを理解できることは無く、 そして、 単にわからないだけでは済んでいなくて、 何でも 必ず 現実とは違うことが 現実として見えてしまって、 現実とは全く違う『妄想世界』のお伽噺を語り合って暮らしている面々の集いが成立する構図と 同じだろう。
現実を正しくわかることができる人には より正しいことが より望ましく正しいこととわかり、 優れているようになれてきた人には より優れていることが より望ましく優れていることとわかって、 経験と共に より向上していくことができる。
でも、 『思考停止』と表されたりもする、 自身で考えたり 確かめるということ自体が 未だに わかるようにならないまま、 何でも 全て他者に倣って 誰かから教えられたお噺の断片を復唱することで わかっている振りをして ごまかし続けている面々は、 どういう状況ででも、 自身が 優れているとか 正しいことにするのにご都合がよいお噺の下に群がる。
だから、 間違っている面々には より馬鹿げた間違いほど より望ましく正しいことになり、 劣りすぎている面々には より劣っていることが より望ましく優れていることになってしまって、 より一層の間違いを深めて 一段と劣化することを、 あべこべに 向上したつもりになってしまう。
鳥写真の関連でなら、 稚拙すぎるにも全く及ばないことをしただけで 超絶に優れたことに『成功』したと 大きなお声でご自慢しているお方の周りに 続々と吹き溜まっての集いが形成される、 毎度毎度の情景。
そういう集いでは、 ありがたがられている“ご教義”のお噺を復唱することが 正しくて優れている証明の根拠とされて、 その“設定”とは異なることは 間違っていて劣っている証明とされる。
でも、 本来 一番肝心な、 その“ご教義”であり それに沿った“設定”でありが 本当に正しいのか、 優れていると称するものが 本当に優れているのか、という 根本の本質的な部分には、 そもそも 目を向けることは無い・・・ というか、 そこに集うにおいて 大前提のお約束である“設定”に疑問を持つのは、 それ自体が“設定”に反するのを根拠として 間違っていて劣っていることになってしまう、 本質の実態がないご都合での集いだからこその必要性で共有されている 暗黙の了解での 触れてはいけない お約束の闇。
だから『思考停止』であり、 だから、 実際にやっていることとは全く違うことに『成功』したとご自慢している矛盾にすら 気付くことはできない。
これは 同時に、 もし、 自身が優れているとする根拠にしている集いの支離滅裂ぶりに気付いてしまうことになれば、 自身が醜態を晒してきた現実に気付くこと そのもの。
だからこそ 現実に気付く必要がある・・・ のが、 真っ当で 普通だろうが・・・
その現実に気付き、 その現実に向き合って 自身を改善していける 最低限の知的な能力があって現在に至っているのなら、 そもそも そんな集いには 一度として関わったりしていないだろう。
まして、 あまりにも馬鹿げすぎている矛盾にすら気付けずに、 “人”なら 全くあり得るはずもない醜態を すでに延々と積み上げてきた、 しかも、 多くは、 ご立派を気取って ご自慢の押し売りにまで励み続けて わざわざ ひけらかし回ってきた、となると・・・
そういう面々が 実際とは違うものが見えてしまって暮らしていることがわかっている側からは、 もし 『幻想世界』の面々が リアル世界の現実に気付いてしまうことになれば 『何に気付く』のかが わかっているので、 実際に気付いたとなれば、 言葉では 何も言わなくても、 あるいは、 ごまかそうとしたところで、 立ち居振る舞いで 容易に そして 明確にわかる。
だから、 そういう集いの中で暮らしている面々が、 リアル世界の実際が、 自身が優れていることにしている“設定”とは 全く違う現実が見えそうになってしまうと、 その現実を認めることが受け入れられずに、 (より本当には すでに知ってしまっている)現実から目を背け 耳を塞いで、 それまで拠り所にしてきた“設定”を復唱し合って その正しさを証明し合っていられる 同類さん同士だけでの『幻想世界』に逃げ戻って 閉じ籠もり続けていることも 明確にわかるもの。
そういう状況は、 自身の矛盾を “認識(もしくは 理解、自覚、...)している”のか “認識できていない”のか、は、 表すのが難しい部分だが・・・
矛盾しているからこそ、 (そもそも 本当に自身が正しいのが当然でいるのなら そもそも する必要などない) 自身の正当化を声高に叫ばずにはいられない不安から、 また更に一段と大きなお声で 『幻想世界』の“設定”の復唱を ご熱心に繰り返して 同類さんに賛同を求めて回り続けることで、 ますます その馬鹿げたお噺が さも事実かのように喧伝されていく。
そういう『幻想世界』に暮らし続けている面々の存在は、 鳥関連が、 他の分野や 世の中全体と比べて 割合が極端に多い特殊な世界ということでは ないだろう。
もちろん、 ピアノや スポーツのような、 初心者が “ある程度”には リアル世界全体からの 客観性がある指導と評価が期待できる「~~教室」的な環境を経ることができる分野では、 少々 事情が違うが・・・
実態とはかけ離れすぎた『幻想世界』に暮らし続けている面々が 頭数では圧倒的大多数を占めているのは、 鳥関連だけではなく、 他の分野でも 世の中全体でも 同じはず。
世の中全般にあることは どの分野でも 同じようにあるし、 何かの分野にあることは 世の中全般でも 同じようにあるもの。
何かの特定の分野にあることは 他の分野でも 同じようにあるもの。
リアル世界にあることは ネット世界でも 同じようにあるし、 ネット世界にあることは リアル世界でも 同じようにあるもの。
(鳥関連のような) 日常生活での 最低限の必須要素ではない 特定の分野の中での、 元々 周囲から配慮をしてもらえていることで お幸せに集っていられている『幻想世界』での醜態なら、 その現実に気付いてしまっても、 以降は、 実態をわかっているからこそ 温かい目で そっとスルーしてくれていると目される人とは隣接しない状況に限定した『幻想世界』の集いの中に閉じ籠もるに徹して、 また、 ご立派を気取って ご指導してあげようと周囲に絡みついていく 勘違い行動をしなれば、 自身の本質には向き合おうとせずに、 それでも 自身が 稚拙ぶりをあべこべに得意げでいる現実を認識せざるを得ない状況を わざわざ自身で作って 不都合な感情が生じてしまうのは緩和しようとする ごまかしの逃げ道もあるだろうが・・・
でも、 『社会の歪み』での “人”として関わることが困難な醜態を晒している状況は、 日常生活そのものの中でのこと。
そして、 これは、 特に、 教師によるもののような、 その都度 現実を明確に示すことが必要な状況もある。
その、 自身のタテマエでは不都合な 『偏見』や『差別的』な思考での 支離滅裂な言動の現実を明確に示されることには、 中途半端にごまかせる逃げ道はなく、 自身が 知的面で“人”として接せられる存在ではあり得ない現実のありのままを 正しく認めた上で、 一時の表面上の文言だけではない 実態と継続性がある 真摯な言動を示すことでしか、 “人”として関われる以前に、“人”として関われる可能性の模索を始められることすら あり得ようがない。
それを、 頑なに ご勝手なご都合での妄想話を捏ね繰り回して 自身を自賛し続ける『幻想世界』に閉じ籠もり続けるのでは、 もう 永久に“人”として見てもらえなくなるのは 当然のことだろう。
それでも・・・、 『偏見』や『差別的』な思考を当然としていながら良識者面でいる面々は、 遠大で膨大な労力の先で 一時的には 自覚するに至る状況があっても なお、 私の経験の限りでは 例外なく全てが すぐに現実を認めることから逃げて、 一切誇張なく 全くリアルな ほんの数秒の まさに一瞬で、 また 同類さんが圧倒的に多くいる『幻想世界』に閉じ籠もって、 ご都合の妄想噺を正しいことにし合える同類さん同士だけで正当化し合って、 ますます良識者面して 全く矛盾した決め付けを喧伝して回る 無限ループの繰り返しに帰す・・・ というか、 更に一層 悪化してしまうのが、 根が深すぎる要因だろう。
少々 前に、 鈴木彩子 「ミステリー~運命(さだめ)~」について書いたことで 思ったこと...
どこにでもありふれた、 特別に 「恵まれた家庭で 何不自由なく育った」といわれるほどでもない 「普通」の環境からでも、 世の中や 自身の思考が、 真に公平・平等とまでではなくても 概ねでは 極端に脱するほどではなく それなりには健全なことになっている世界観が、 当たり前の常識として見えているらしい。
でも、 その世界観は、 家庭が要因での「そうではない環境」の立場では 無数に経験する、 ありがちな言葉では 『偏見』『差別的』とか 『社会の歪み』と表されるような、 自身の能力や行動の実際とは無関係に 家庭面の「そうではない環境」を理由として科される不条理が連鎖する実際は、 根本的に 全く違いすぎていると感じる。
こういう部分は、 実際に経験していなければ、 断片的な それっぽい文言を ただ復唱して わかっているつもりになっていても、 その大きすぎる重さも、 そもそも それが何なのかも、 微々たる ほんの一端すら、 わかり、感じられることは まず望めないことを、 何かの機会がある度に痛感する。
そして、 『社会の歪み』の側にいる面々は、 他者の『偏見』『差別的』な言動や『社会の歪み』を批判していながら、 まさに自身こそが 同じ あるいは もっと歪んだ思考での 具体的な言動をしている矛盾にも 気付くことができないもの。
家庭面の「そうではない環境」を理由として具体的で直接的に明言されて 実際とは無関係な断定を勝手に決め付けられることは、 多くの教師も含めて 無数に経験している。
そういう勝手な決め付けの誤り(というか、 殆どの場合、 根本から全てが明確に矛盾して そもそも実在し得ない支離滅裂ぶり)を指摘する必要がある状況では、 具体的な事実を挙げてもなお、 その自身は、 『差別的』な思考が当然でいて 実際に それに沿った行動をしている現実を タテマエでは 社会的な美徳感に沿った健全なことにして 辻褄が合っていないまま暮らしていて恒常化した矛盾に気付くことはできず、 そもそも見てもいないのに 自身が見て確認した事実と称して詳細に語っているお噺が 実態の欠片も全くない虚構でしかないことも 自覚できない。
また、 その断定の根拠として 家庭面の「そうではない環境」を具体的で直接的に明言している事実も、 ほんの数秒前に その文言を自身が発したことから 自覚できない。
そのため、 また更に、 断定の根拠として 家庭面の「そうではない環境」を具体的で直接的に明言して 現実とは全く違うお噺を口走り続けることを 延々と繰り返すだけの、 “人”としての会話と呼べる関係そのものが成立することを望めるとは到底思えない 不毛な状況になるばかり。
そのため、 『社会の歪み』の側の面々は、 自身の言動に対する 自身のタテマエでは都合が悪い指摘を、 相手が「自分の殻の中に閉じ籠もっている」 「被害妄想」と決め付けがちのようだが、 現実は 完全なあべこべで、 それこそが 『自分の殻の中に閉じ籠もって』 自身のタテマエではご都合がよい『妄想』を積み重ねているだけのこと。
そして、 自身が『妄想世界』に閉じ籠っているだけの現実が理解できず・・・ というか、 自身こそが現実を見ようとすること自体から逃げ続けていながら、 わざわざ、 ありもしなければ、 明確に辻褄が合っていないのだから あり得るはずもないことを言い張り続けてしまっているから 馬鹿げた状況になってしまっているのに、 実際とは あべこべに、 自身が わざわざ作った不都合を相手の所為にして、 相手の誤りを正して指導してあげる正義感を振りかざして 更に『妄想』を口走っては 延々と ご勝手な虚構を積み重ね続けて、 ますます 正義感が勢いづいて・・・ の 醜態を晒し続けられる愚行に巻き込まれるのだから、 迷惑極まりない。
そんな風に、 むしろ、 全く違うことを わかっているつもりになっている面々、 そして、 より歪んだ思考で暮らしている面々ほど、 自身にはご都合が良い ご勝手な『妄想』を より多く積み上げて、 より一層に 良識者面してしまう。
そして、 そういう わかっているつもりの 支離滅裂な説法が喧伝されては、 それが ご都合が良い面々が群れ集って称賛して、 その周囲の面々も含めて なお一層の 良識者気取りに陶酔してしまう、 世の中全体での 馬鹿げた? 愚かな? 狂った? 大きな『妄想』の無限ループは とても根が深い。
そして、 これは、 別の例では・・・
(これまでにも書いてきたように、) 鳥関連での 頭数【あたまかず】では 圧倒的大多数を占める、 目の前にある現実の ありのままを理解できることは無く、 そして、 単にわからないだけでは済んでいなくて、 何でも 必ず 現実とは違うことが 現実として見えてしまって、 現実とは全く違う『妄想世界』のお伽噺を語り合って暮らしている面々の集いが成立する構図と 同じだろう。
現実を正しくわかることができる人には より正しいことが より望ましく正しいこととわかり、 優れているようになれてきた人には より優れていることが より望ましく優れていることとわかって、 経験と共に より向上していくことができる。
でも、 『思考停止』と表されたりもする、 自身で考えたり 確かめるということ自体が 未だに わかるようにならないまま、 何でも 全て他者に倣って 誰かから教えられたお噺の断片を復唱することで わかっている振りをして ごまかし続けている面々は、 どういう状況ででも、 自身が 優れているとか 正しいことにするのにご都合がよいお噺の下に群がる。
だから、 間違っている面々には より馬鹿げた間違いほど より望ましく正しいことになり、 劣りすぎている面々には より劣っていることが より望ましく優れていることになってしまって、 より一層の間違いを深めて 一段と劣化することを、 あべこべに 向上したつもりになってしまう。
鳥写真の関連でなら、 稚拙すぎるにも全く及ばないことをしただけで 超絶に優れたことに『成功』したと 大きなお声でご自慢しているお方の周りに 続々と吹き溜まっての集いが形成される、 毎度毎度の情景。
そういう集いでは、 ありがたがられている“ご教義”のお噺を復唱することが 正しくて優れている証明の根拠とされて、 その“設定”とは異なることは 間違っていて劣っている証明とされる。
でも、 本来 一番肝心な、 その“ご教義”であり それに沿った“設定”でありが 本当に正しいのか、 優れていると称するものが 本当に優れているのか、という 根本の本質的な部分には、 そもそも 目を向けることは無い・・・ というか、 そこに集うにおいて 大前提のお約束である“設定”に疑問を持つのは、 それ自体が“設定”に反するのを根拠として 間違っていて劣っていることになってしまう、 本質の実態がないご都合での集いだからこその必要性で共有されている 暗黙の了解での 触れてはいけない お約束の闇。
だから『思考停止』であり、 だから、 実際にやっていることとは全く違うことに『成功』したとご自慢している矛盾にすら 気付くことはできない。
これは 同時に、 もし、 自身が優れているとする根拠にしている集いの支離滅裂ぶりに気付いてしまうことになれば、 自身が醜態を晒してきた現実に気付くこと そのもの。
だからこそ 現実に気付く必要がある・・・ のが、 真っ当で 普通だろうが・・・
その現実に気付き、 その現実に向き合って 自身を改善していける 最低限の知的な能力があって現在に至っているのなら、 そもそも そんな集いには 一度として関わったりしていないだろう。
まして、 あまりにも馬鹿げすぎている矛盾にすら気付けずに、 “人”なら 全くあり得るはずもない醜態を すでに延々と積み上げてきた、 しかも、 多くは、 ご立派を気取って ご自慢の押し売りにまで励み続けて わざわざ ひけらかし回ってきた、となると・・・
そういう面々が 実際とは違うものが見えてしまって暮らしていることがわかっている側からは、 もし 『幻想世界』の面々が リアル世界の現実に気付いてしまうことになれば 『何に気付く』のかが わかっているので、 実際に気付いたとなれば、 言葉では 何も言わなくても、 あるいは、 ごまかそうとしたところで、 立ち居振る舞いで 容易に そして 明確にわかる。
だから、 そういう集いの中で暮らしている面々が、 リアル世界の実際が、 自身が優れていることにしている“設定”とは 全く違う現実が見えそうになってしまうと、 その現実を認めることが受け入れられずに、 (より本当には すでに知ってしまっている)現実から目を背け 耳を塞いで、 それまで拠り所にしてきた“設定”を復唱し合って その正しさを証明し合っていられる 同類さん同士だけでの『幻想世界』に逃げ戻って 閉じ籠もり続けていることも 明確にわかるもの。
そういう状況は、 自身の矛盾を “認識(もしくは 理解、自覚、...)している”のか “認識できていない”のか、は、 表すのが難しい部分だが・・・
矛盾しているからこそ、 (そもそも 本当に自身が正しいのが当然でいるのなら そもそも する必要などない) 自身の正当化を声高に叫ばずにはいられない不安から、 また更に一段と大きなお声で 『幻想世界』の“設定”の復唱を ご熱心に繰り返して 同類さんに賛同を求めて回り続けることで、 ますます その馬鹿げたお噺が さも事実かのように喧伝されていく。
そういう『幻想世界』に暮らし続けている面々の存在は、 鳥関連が、 他の分野や 世の中全体と比べて 割合が極端に多い特殊な世界ということでは ないだろう。
もちろん、 ピアノや スポーツのような、 初心者が “ある程度”には リアル世界全体からの 客観性がある指導と評価が期待できる「~~教室」的な環境を経ることができる分野では、 少々 事情が違うが・・・
実態とはかけ離れすぎた『幻想世界』に暮らし続けている面々が 頭数では圧倒的大多数を占めているのは、 鳥関連だけではなく、 他の分野でも 世の中全体でも 同じはず。
世の中全般にあることは どの分野でも 同じようにあるし、 何かの分野にあることは 世の中全般でも 同じようにあるもの。
何かの特定の分野にあることは 他の分野でも 同じようにあるもの。
リアル世界にあることは ネット世界でも 同じようにあるし、 ネット世界にあることは リアル世界でも 同じようにあるもの。
(鳥関連のような) 日常生活での 最低限の必須要素ではない 特定の分野の中での、 元々 周囲から配慮をしてもらえていることで お幸せに集っていられている『幻想世界』での醜態なら、 その現実に気付いてしまっても、 以降は、 実態をわかっているからこそ 温かい目で そっとスルーしてくれていると目される人とは隣接しない状況に限定した『幻想世界』の集いの中に閉じ籠もるに徹して、 また、 ご立派を気取って ご指導してあげようと周囲に絡みついていく 勘違い行動をしなれば、 自身の本質には向き合おうとせずに、 それでも 自身が 稚拙ぶりをあべこべに得意げでいる現実を認識せざるを得ない状況を わざわざ自身で作って 不都合な感情が生じてしまうのは緩和しようとする ごまかしの逃げ道もあるだろうが・・・
でも、 『社会の歪み』での “人”として関わることが困難な醜態を晒している状況は、 日常生活そのものの中でのこと。
そして、 これは、 特に、 教師によるもののような、 その都度 現実を明確に示すことが必要な状況もある。
その、 自身のタテマエでは不都合な 『偏見』や『差別的』な思考での 支離滅裂な言動の現実を明確に示されることには、 中途半端にごまかせる逃げ道はなく、 自身が 知的面で“人”として接せられる存在ではあり得ない現実のありのままを 正しく認めた上で、 一時の表面上の文言だけではない 実態と継続性がある 真摯な言動を示すことでしか、 “人”として関われる以前に、“人”として関われる可能性の模索を始められることすら あり得ようがない。
それを、 頑なに ご勝手なご都合での妄想話を捏ね繰り回して 自身を自賛し続ける『幻想世界』に閉じ籠もり続けるのでは、 もう 永久に“人”として見てもらえなくなるのは 当然のことだろう。
それでも・・・、 『偏見』や『差別的』な思考を当然としていながら良識者面でいる面々は、 遠大で膨大な労力の先で 一時的には 自覚するに至る状況があっても なお、 私の経験の限りでは 例外なく全てが すぐに現実を認めることから逃げて、 一切誇張なく 全くリアルな ほんの数秒の まさに一瞬で、 また 同類さんが圧倒的に多くいる『幻想世界』に閉じ籠もって、 ご都合の妄想噺を正しいことにし合える同類さん同士だけで正当化し合って、 ますます良識者面して 全く矛盾した決め付けを喧伝して回る 無限ループの繰り返しに帰す・・・ というか、 更に一層 悪化してしまうのが、 根が深すぎる要因だろう。
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