(これまでにも 時々書いている話に 続きます...)
状況自体が、 どう完璧に写せたところで たいした画には なり得ないのが 判りきっていたので、 むやみにシャッターを切るのではなく 正確に対応しないといけない事情を強制することで練習にするのも兼ねつつの “ゲーム感覚”で、 あえて、カメラのドライブモードを 連写されない「1コマ撮り」に設定して、 フィルムの時代のように 1シーンに1コマだけで狙い射ちしたカット。
こういう遊びができる、というところでも、 カワセミが、 大きさに対しての俊敏さでは 他種とは リアルに桁違いの 超スローモーションな 特殊すぎる鳥だということが判るだろう。
当然、 こんな“あえて”の制約を付けずに、 現代の、 コマ数をたいして気にせずに写せて 連写も速いカメラの機能を ごくごく普通に使えば、 難度は もっと低くなる。
ダイビング後や 近い距離の移動で “助走”のスピードがついていない状態から 重力に逆らって上がってくる動きでは 更に遅いので、 こういうのも また、 簡単に写せるシーン。
それに加えて、 パターンがとても少ない 限られた行動だけを 単調に繰り返し続けることで 予測も容易な特徴まで揃っている カワセミは、 他種の鳥を撮ろうとすれば 当然に必要になる“ほんの初歩”の知識や 撮影技術的なスキルが ほぼ無いままでも、 枝にとまっているだけの“剥製写真”よりは 動き感がある 『飛んでいる』画・・・というか、 『“宙にいる姿”を写していると表せば 当てはまることを “飛んでいる”と言えるといえば 言えなくはない』画を (ある程度の機材さえあれば) 誰でも すぐに写せてしまう。
それが、 鳥への 興味・関心が薄い 一般の人には “鳥写真での究極の目標”みたいに思われがちな “あのカワセミ”の、なので、 鳥写真の初心者にとっては、 初期投資に 即効でリターンが得られる “都合がよい被写体”という面が あるだろう。
が、
これは、 多種いる鳥の中でも 特徴が特異すぎるから 極端に簡単なカワセミを写していても、 他種の鳥写真では色々必要な知識やスキルの“ほんの初歩”にすら 殆ど繋がっていかない、ということでもある。
当たり前すぎることだが、 鳥写真では、 被写体になる鳥がいて、 撮れる状況があるシーンしか 写せない。
どんなに良い場所でも、 無知な行動をして 鳥を追い散らしてしまう存在が居れば、 他の誰もまで 近くからは写せなくなる。
どんなに良い場所でも、 写す価値がある状況が 良い条件では起きなくしてしまう存在が居れば、 他の誰もまで 写したところで価値の低い写真しか 望めなくなる。
そういう点で、 自然界での鳥写真では、 多くの場合、 そこで撮れる写真のレベルの上限は、 そこに居る中で 一番レベルが低い存在に合わされてしまうことになる、ともいえる。
もちろん、 ただそこに居る(行く)こと自体だけでも 自身の無知から 多大な邪魔をしてしまう(既にしてしまっている)可能性が とても高いことをわきまえた節度での行動をしていて、でなら、 長期間かけて観察を続けるなど 多くの労力を費やしてきた成果を ぶち壊しにしてしまうような迷惑でも 一度二度位なら 「誰でも 最初は 無知な初心者だから」と 温かい目で 諦めざるを得ないこと。
だが、 ありがちな、 知識やスキルが乏しいままで、 自身の能力では 鳥を写せる場所を見つけられず、 それでも 鳥を写したい 工夫のつもりの 浅知恵で、 “鳥”自体よりも “鳥を撮っている人”を探して そこに割り込んだり、 優れた写真が撮られた場所を訊きまわっては そこに駆けつける行動は、 自身が得られる写真自体から 「そこ行きさえすれば 同じに優れた写真を撮れる」というものではないだけでなく、 わざわざ 他の人の邪魔をしてあげに行っているに等しい 迷惑な行動になる。
それを繰り返せば、 当然、 周囲の“鳥を撮っている人”からは、 “同好”や“同人”といった感覚で表される対象では なくなるだろう。
そして、 もっと迷惑なのが・・・
知的面に いわゆる“健常者”とは異なる配慮が必要とされる特性をお持ちで、 何をやるにしても 稚拙すぎることでも ろくにできていないのに、 零細なことができただけで 何でも 「特別に優れたことに『成功』している」ことになっている お幸せな幻想世界が見えてしまう面々は、 どこのフィールドにでも いつでも 多々いてしまうもの。
そういう面々は、
「“あのカワセミ”が“飛んでいる”写真の撮影にまでも『成功』したことがあるほどにまでも、 鳥に詳しくて、鳥の写真でも優秀な この私が、 皆の為に ☆△※◇◎♪・・・!」
といった 可笑しな優越感と ご指導してあげる使命感を駆って、 鳥を撮っているらしき人を見かける毎に、 逐一 意気揚々と割り込んでいっては、 まさに 今 そこにいた鳥を追い散らしておきながら それに気付くことすらもできず、 まぁ 見事なまでに 異口同音に、
(方言的な言い回しを 標準語に近づけて書いている以外の “内容”は 実話)
「アンタが 鳥を見つけて 今ここで撮っていることに気付いていないことを、 私は ちゃんと解っているから、 『アンタが 今 ここで撮ってる』ことを教えてあげた」
「私が 『アンタが 今 ここで撮ってる』と教えてあげたということは、 『ここは 私が 自分でも気付かないうちに 1週間前から 先に見つけて撮っていた』ことを、 私は ちゃんと解っている」
「アンタは 『ここは 私が 先に見つけて撮っていた』ことを教えてあげたのを聞いたから、 私が撮っている場所に行きさえすれば 私が撮影に『成功』しているような素晴らしい写真を撮れると思って 私の後から ここに来たことを、 私は ちゃんと解っている」
などといった、 実在しない・・・ というか、実在し得ない滑稽なお噺を 得意満面に語ってしまうのが、 毎度毎度のこと。
そして、 全く支離滅裂すぎる妄想を 次々と延々と拡げて 自分勝手に語り続けては、 ますます 得意げになって、 ますます ご熱心に 馬鹿げたご指導の押し売りに 励んであげてしまって、 実在するはずもない功績を 周囲にも語(騙)り回ってしまう お幸せぶり。
リアル世界の実際では、 良くも悪くも 様々に違ったことが起きるもの。
でも、 勝手な妄想で作られる『ご自身をご都合良く祀り上げたお伽噺』は、 いつも 同じ経過で 同じ結果に『成功』する ワンパターンのお噺にしかならない。
なので、 全く繋がりのない別機会の 多くの面々が、 「一応、鳥が写っている」程度の 稚拙すぎる写真を“激写”しては、 こちらは そもそも 一言として 何も言っていなくても お構いなしに、 まぁ 何とも壮大盛大に化けた おめでたい情景・・・
「アンタが、 僕なんか、 もしも、ですよ、 あり得ないことだけど もしも、 ○○の撮影に『成功』できたら 赤飯炊いてお祝いすることだけど、 難しすぎて 僕には絶対に不可能なのに、 あれほどまでにも素晴らしい写真の撮影に『成功』できる人がいるなんて・・・ 信じられないっ!!! どうすれば あんな素晴らしい写真の撮影に『成功』できるんですかっ!?、 教えてください! お願いします! お願いしますっ!! お願いしますっっ!!! と言っていたほどもの写真の撮影に、 私は また『成功』しましたぁ! アンタも ○○の撮影に『成功』できるようになれるように、 この私が 教えてあげますよ!」
(・・・ “赤飯”は どこから出てきたのやら x x x これも 某氏の実話より)
とか、
「アンタが、 もし 一万回やって たった一回でも ピントなんか 全く合ってなくても 画面の隅にでも入っていることがわかる写真を撮れるかもしれない可能性があるのなら 挑戦するけど、 その程度の写真ですら 撮影に『成功』できることは 絶対にあり得ないことが 判りきっていて 撮ろうとするだけ無駄だから カメラを構えることすら諦めてしまっているようなことに カメラを構えることに挑戦する人が 世界中に一人でもいるなんて、 あり得ない! あり得ないっ!! あり得ないっっ!!! それなのに・・・ それなのにっ!! それなのにっっ!!! カメラを構えることに挑戦しているどころか、 撮影することにまでも『成功』している そんな 殿上人がいるなんて、 ▽×☆◇*!!! と 泣き叫んで 地団駄踏んで悔しがっていた写真の撮影に、 私は またしても『成功』していますよぉ!」
などと、 大きなお声で 繰り返し 語ってしまわれるのも 実に 珍しくもなく、 実在しない 華々しい絶賛や「泣き叫んで悔しがっていた」といった情景描写までも、 再放送か!?という位に そっくりなお噺を語って 纏わりついてきてしまうのが、 何度となく 日常的に 繰り返されること。
しかし、 『そういう面々』は、 どれだけ『迷惑』な行動を繰り返し続けていても、 社会的通念での 福祉意識では 周囲の側に 犠牲を払ってまでの配慮が求められる対象であり、 それが ご自由に動き回られる状況では、 周囲の方が 極めて神経質にならざるを得ない。
なので、 “鳥の写真を撮っている人”にできる 現実的な対応は、 なるべく 関わることを避けるように 行動を工夫する位しかないだろう。
また、 他の場面での話題でも、 リアル世界での会話で 『そういう面々』に触れたり 相手側から話題に挙げられる状況になれば 特定の対象を直接的に指して 嘲笑を煽っているかにもなり得るのを なるべく避ける 社会的見地からの配慮として、 『そういう面々』が存在していること自体を そっとスルーせざるを得ない。
(扱いに 神経質にならざるを得ないのは、 こうして書くことでも 同じだが・・・)
となると、 そういった『迷惑な面々』は、 必然的に、 その言動が支離滅裂だと理解できず、 かつ、 自身も 同様の妄想世界が見えていることで 実在しない情景のお噺を共有できてしまう 同類さん同士だけで 群れ集うことになる。
『そういう面々』は、 自身の能力で 鳥を見つけることは 殆どできない、のだが、 それでも、 “鳥”よりも 遥かに大きい“人”なら 見つけられるわけで・・・
日々 無数に行き来している そのネットワークの中の誰かが “鳥を撮っている人”を見つければ、 一斉に押しかけて 愚かな行動で荒らし尽くしてしまう。
更には、 他にも 鳥を撮っている場所を“見つけて”手柄を挙げようと、 更に一層の『盗人根性まる出し』で 延々と尾行し続けるといった行動にも 励まれてしまっている始末。
これは、 たとえば、 鳥を撮っている所に割り込んでくるだけでなく、 鳥写真とは 全く無関係な、 野外で 自転車の整備・調整をしていた所にまで 『そういう面々』が集結してきて 大砲レンズを並べて、 私が 時々 顔を上げる毎に その方向に向けて連写し続けては 「飛んでいる鳥の撮影に『成功』したぁ!!」と狂喜乱舞して、 何も写っているとは思えないモニターを 見せ合って・・・の 醜態が繰り広げられ、 その後も、 そこに 何週間も 集結し続けて、 いつもの通りに 妄想世界でのご自慢を 賑やかに語り合い続けていた、という類のことが、 何度もある有様。
そして、 カワセミだけに限らず、 各地で盛況な、 どこでも いつも ほぼ同じ面々がハシゴして 集っている 『餌付け撮影会』『ヤラセ撮影会』をはじめとした “ありがたがられる種類”に群がっての撮影会は、 まず例外なく 全てが、 そういった『迷惑な面々』が 日々 ご熱心に巡回して、
「この私ほどもの腕前をもってしても 未だに一度も撮れたことがないどころか、撮れると思ったことすらもなければ、 どうすれば あんな写真が撮れるのか 想像もつかない とてつもない写真を 毎日 何十枚でも撮っている人がいるということは、 私は もっと良い写真を 自分でも気付かないうちに 撮影に『成功』していたことを、 私は ちゃんと解っている」
「この私ですら どうすれば撮れるのか 想像もつかない 良い写真を撮れている人がいるということは、 どうすれば撮れるのかを 私が教えてあげたことで 撮れるようにしてあげたことを、 私は ちゃんと解っている」
などと、 明らかに矛盾して 実在し得ない“実績”“功績”を賑やかに語る 支離滅裂な妄想話を ありがたがられて、
「この私ですら 未だに一度も撮れたことがない良い写真を いつも撮れていたやり方をすれば、 今日も 皆が、 私がいつも撮影に『成功』している 未だに一度も撮れたことがない良い写真を 必ず撮れる」
といった、 ご自身が「わからない」「一度も撮れたことがない」と明言している通り、 実現するはずもない ご指導の恩恵に与ろうと 後を追い続ける面々に崇められて ご活躍の、 同類さん同士だけの集い。
つまり、 そういう『鳥の写真を撮っている人ごっこ』の撮影会に加わって 『そういう面々』と親交を持っている面々は、 周囲の“鳥の写真を撮っている人”からは、 もう 既に 『迷惑なネットワークの構成要員』『盗人根性まる出しさんネットワークの構成要員』として見られている、と いうこと。
そして、 それは 同時に、 『そういう集い』で 和気あいあいとご自慢し合われている、 毎度毎度毎度の 定番であり 定型の 『好まれる単語・語句の間を でたらめに繋ぎ合わせた お噺』が、
“何故か、 皆が『ここは 私が 先に見つけて 教えてあげた』”
“皆が 『私が 先に見つけていた』のは、 (自身が「今日 入った」と言っている鳥ですら、) 何故か いつも『1週間前から』”
“何故か、 (その使用レンズでは そもそも 構造上 ピントが合わせられない) 『にめぇ~たぁ~』『さんじゅっせんち』で 撮影に『成功』していることになっている”
といったものも、 語り合われている 殆ど全てが、 (鳥への知識とは関係なく “人”としての “ほんの最低限ですらもない程度の知能”さえあれば 瞬時に解るのが 当たり前の、) 実際を確認するまでもなく そもそも 実在し得ないことに気付くこともできず、 それどころか、 まさに 目の前にある リアル世界の実際とは 全く違うことにすらも 気付くことはなく 復唱し合って 称え合っている言動は、 自身が 『そういう面々』と同じ、 いわゆる“健常者”とは異なる配慮が必要とされる 知的面の特性をお持ちの方だと 明確 かつ 完全に 証明して見せている、と いうこと。
これは、 もちろん、 周囲が 『そういう面々』の存在で 多大な迷惑を被り続けていても なお 社会的な福祉観からの 寛大な配慮での犠牲を強いられていることに気付くこともなく、 ずっと リアル世界の実際とは全く別の 『ご都合がよい幻想世界』が見えてしまっている面々同士だけでの集いで暮らし続けて 荒らし回り続けている限りは、 他の皆は 写したところで 価値が無さすぎるから スルーしているものを、 あべこべに、 他の皆が 難しすぎて カメラを構えることすら 諦めてしまっているほどもの 優れた写真の撮影にまでも『成功』していると ちゃんと解ってしまったまま、 お幸せな優越感に浸り続けられるのでしょう。
でも、 もしも、いつか、その実際に気付くことができた(気付いてしまった)として、 その時に 「これからは“鳥の写真を撮っている人”の世界に歩み出したい」と思ったとしても、 “鳥の写真を撮っている人”は、 実際の経緯での 明確な根拠がある事実への 明確な意向での行動として 引き続きスルーして、 関わりを持てる可能性は とっくの昔に 自身の言動によって 永久に無くしている、というのが、 多くの面々が 既に至っている実状でしょう。
状況自体が、 どう完璧に写せたところで たいした画には なり得ないのが 判りきっていたので、 むやみにシャッターを切るのではなく 正確に対応しないといけない事情を強制することで練習にするのも兼ねつつの “ゲーム感覚”で、 あえて、カメラのドライブモードを 連写されない「1コマ撮り」に設定して、 フィルムの時代のように 1シーンに1コマだけで狙い射ちしたカット。
こういう遊びができる、というところでも、 カワセミが、 大きさに対しての俊敏さでは 他種とは リアルに桁違いの 超スローモーションな 特殊すぎる鳥だということが判るだろう。
当然、 こんな“あえて”の制約を付けずに、 現代の、 コマ数をたいして気にせずに写せて 連写も速いカメラの機能を ごくごく普通に使えば、 難度は もっと低くなる。
ダイビング後や 近い距離の移動で “助走”のスピードがついていない状態から 重力に逆らって上がってくる動きでは 更に遅いので、 こういうのも また、 簡単に写せるシーン。
それに加えて、 パターンがとても少ない 限られた行動だけを 単調に繰り返し続けることで 予測も容易な特徴まで揃っている カワセミは、 他種の鳥を撮ろうとすれば 当然に必要になる“ほんの初歩”の知識や 撮影技術的なスキルが ほぼ無いままでも、 枝にとまっているだけの“剥製写真”よりは 動き感がある 『飛んでいる』画・・・というか、 『“宙にいる姿”を写していると表せば 当てはまることを “飛んでいる”と言えるといえば 言えなくはない』画を (ある程度の機材さえあれば) 誰でも すぐに写せてしまう。
それが、 鳥への 興味・関心が薄い 一般の人には “鳥写真での究極の目標”みたいに思われがちな “あのカワセミ”の、なので、 鳥写真の初心者にとっては、 初期投資に 即効でリターンが得られる “都合がよい被写体”という面が あるだろう。
が、
これは、 多種いる鳥の中でも 特徴が特異すぎるから 極端に簡単なカワセミを写していても、 他種の鳥写真では色々必要な知識やスキルの“ほんの初歩”にすら 殆ど繋がっていかない、ということでもある。
当たり前すぎることだが、 鳥写真では、 被写体になる鳥がいて、 撮れる状況があるシーンしか 写せない。
どんなに良い場所でも、 無知な行動をして 鳥を追い散らしてしまう存在が居れば、 他の誰もまで 近くからは写せなくなる。
どんなに良い場所でも、 写す価値がある状況が 良い条件では起きなくしてしまう存在が居れば、 他の誰もまで 写したところで価値の低い写真しか 望めなくなる。
そういう点で、 自然界での鳥写真では、 多くの場合、 そこで撮れる写真のレベルの上限は、 そこに居る中で 一番レベルが低い存在に合わされてしまうことになる、ともいえる。
もちろん、 ただそこに居る(行く)こと自体だけでも 自身の無知から 多大な邪魔をしてしまう(既にしてしまっている)可能性が とても高いことをわきまえた節度での行動をしていて、でなら、 長期間かけて観察を続けるなど 多くの労力を費やしてきた成果を ぶち壊しにしてしまうような迷惑でも 一度二度位なら 「誰でも 最初は 無知な初心者だから」と 温かい目で 諦めざるを得ないこと。
だが、 ありがちな、 知識やスキルが乏しいままで、 自身の能力では 鳥を写せる場所を見つけられず、 それでも 鳥を写したい 工夫のつもりの 浅知恵で、 “鳥”自体よりも “鳥を撮っている人”を探して そこに割り込んだり、 優れた写真が撮られた場所を訊きまわっては そこに駆けつける行動は、 自身が得られる写真自体から 「そこ行きさえすれば 同じに優れた写真を撮れる」というものではないだけでなく、 わざわざ 他の人の邪魔をしてあげに行っているに等しい 迷惑な行動になる。
それを繰り返せば、 当然、 周囲の“鳥を撮っている人”からは、 “同好”や“同人”といった感覚で表される対象では なくなるだろう。
そして、 もっと迷惑なのが・・・
知的面に いわゆる“健常者”とは異なる配慮が必要とされる特性をお持ちで、 何をやるにしても 稚拙すぎることでも ろくにできていないのに、 零細なことができただけで 何でも 「特別に優れたことに『成功』している」ことになっている お幸せな幻想世界が見えてしまう面々は、 どこのフィールドにでも いつでも 多々いてしまうもの。
そういう面々は、
「“あのカワセミ”が“飛んでいる”写真の撮影にまでも『成功』したことがあるほどにまでも、 鳥に詳しくて、鳥の写真でも優秀な この私が、 皆の為に ☆△※◇◎♪・・・!」
といった 可笑しな優越感と ご指導してあげる使命感を駆って、 鳥を撮っているらしき人を見かける毎に、 逐一 意気揚々と割り込んでいっては、 まさに 今 そこにいた鳥を追い散らしておきながら それに気付くことすらもできず、 まぁ 見事なまでに 異口同音に、
(方言的な言い回しを 標準語に近づけて書いている以外の “内容”は 実話)
「アンタが 鳥を見つけて 今ここで撮っていることに気付いていないことを、 私は ちゃんと解っているから、 『アンタが 今 ここで撮ってる』ことを教えてあげた」
「私が 『アンタが 今 ここで撮ってる』と教えてあげたということは、 『ここは 私が 自分でも気付かないうちに 1週間前から 先に見つけて撮っていた』ことを、 私は ちゃんと解っている」
「アンタは 『ここは 私が 先に見つけて撮っていた』ことを教えてあげたのを聞いたから、 私が撮っている場所に行きさえすれば 私が撮影に『成功』しているような素晴らしい写真を撮れると思って 私の後から ここに来たことを、 私は ちゃんと解っている」
などといった、 実在しない・・・ というか、実在し得ない滑稽なお噺を 得意満面に語ってしまうのが、 毎度毎度のこと。
そして、 全く支離滅裂すぎる妄想を 次々と延々と拡げて 自分勝手に語り続けては、 ますます 得意げになって、 ますます ご熱心に 馬鹿げたご指導の押し売りに 励んであげてしまって、 実在するはずもない功績を 周囲にも語(騙)り回ってしまう お幸せぶり。
リアル世界の実際では、 良くも悪くも 様々に違ったことが起きるもの。
でも、 勝手な妄想で作られる『ご自身をご都合良く祀り上げたお伽噺』は、 いつも 同じ経過で 同じ結果に『成功』する ワンパターンのお噺にしかならない。
なので、 全く繋がりのない別機会の 多くの面々が、 「一応、鳥が写っている」程度の 稚拙すぎる写真を“激写”しては、 こちらは そもそも 一言として 何も言っていなくても お構いなしに、 まぁ 何とも壮大盛大に化けた おめでたい情景・・・
「アンタが、 僕なんか、 もしも、ですよ、 あり得ないことだけど もしも、 ○○の撮影に『成功』できたら 赤飯炊いてお祝いすることだけど、 難しすぎて 僕には絶対に不可能なのに、 あれほどまでにも素晴らしい写真の撮影に『成功』できる人がいるなんて・・・ 信じられないっ!!! どうすれば あんな素晴らしい写真の撮影に『成功』できるんですかっ!?、 教えてください! お願いします! お願いしますっ!! お願いしますっっ!!! と言っていたほどもの写真の撮影に、 私は また『成功』しましたぁ! アンタも ○○の撮影に『成功』できるようになれるように、 この私が 教えてあげますよ!」
(・・・ “赤飯”は どこから出てきたのやら x x x これも 某氏の実話より)
とか、
「アンタが、 もし 一万回やって たった一回でも ピントなんか 全く合ってなくても 画面の隅にでも入っていることがわかる写真を撮れるかもしれない可能性があるのなら 挑戦するけど、 その程度の写真ですら 撮影に『成功』できることは 絶対にあり得ないことが 判りきっていて 撮ろうとするだけ無駄だから カメラを構えることすら諦めてしまっているようなことに カメラを構えることに挑戦する人が 世界中に一人でもいるなんて、 あり得ない! あり得ないっ!! あり得ないっっ!!! それなのに・・・ それなのにっ!! それなのにっっ!!! カメラを構えることに挑戦しているどころか、 撮影することにまでも『成功』している そんな 殿上人がいるなんて、 ▽×☆◇*!!! と 泣き叫んで 地団駄踏んで悔しがっていた写真の撮影に、 私は またしても『成功』していますよぉ!」
などと、 大きなお声で 繰り返し 語ってしまわれるのも 実に 珍しくもなく、 実在しない 華々しい絶賛や「泣き叫んで悔しがっていた」といった情景描写までも、 再放送か!?という位に そっくりなお噺を語って 纏わりついてきてしまうのが、 何度となく 日常的に 繰り返されること。
しかし、 『そういう面々』は、 どれだけ『迷惑』な行動を繰り返し続けていても、 社会的通念での 福祉意識では 周囲の側に 犠牲を払ってまでの配慮が求められる対象であり、 それが ご自由に動き回られる状況では、 周囲の方が 極めて神経質にならざるを得ない。
なので、 “鳥の写真を撮っている人”にできる 現実的な対応は、 なるべく 関わることを避けるように 行動を工夫する位しかないだろう。
また、 他の場面での話題でも、 リアル世界での会話で 『そういう面々』に触れたり 相手側から話題に挙げられる状況になれば 特定の対象を直接的に指して 嘲笑を煽っているかにもなり得るのを なるべく避ける 社会的見地からの配慮として、 『そういう面々』が存在していること自体を そっとスルーせざるを得ない。
(扱いに 神経質にならざるを得ないのは、 こうして書くことでも 同じだが・・・)
となると、 そういった『迷惑な面々』は、 必然的に、 その言動が支離滅裂だと理解できず、 かつ、 自身も 同様の妄想世界が見えていることで 実在しない情景のお噺を共有できてしまう 同類さん同士だけで 群れ集うことになる。
『そういう面々』は、 自身の能力で 鳥を見つけることは 殆どできない、のだが、 それでも、 “鳥”よりも 遥かに大きい“人”なら 見つけられるわけで・・・
日々 無数に行き来している そのネットワークの中の誰かが “鳥を撮っている人”を見つければ、 一斉に押しかけて 愚かな行動で荒らし尽くしてしまう。
更には、 他にも 鳥を撮っている場所を“見つけて”手柄を挙げようと、 更に一層の『盗人根性まる出し』で 延々と尾行し続けるといった行動にも 励まれてしまっている始末。
これは、 たとえば、 鳥を撮っている所に割り込んでくるだけでなく、 鳥写真とは 全く無関係な、 野外で 自転車の整備・調整をしていた所にまで 『そういう面々』が集結してきて 大砲レンズを並べて、 私が 時々 顔を上げる毎に その方向に向けて連写し続けては 「飛んでいる鳥の撮影に『成功』したぁ!!」と狂喜乱舞して、 何も写っているとは思えないモニターを 見せ合って・・・の 醜態が繰り広げられ、 その後も、 そこに 何週間も 集結し続けて、 いつもの通りに 妄想世界でのご自慢を 賑やかに語り合い続けていた、という類のことが、 何度もある有様。
そして、 カワセミだけに限らず、 各地で盛況な、 どこでも いつも ほぼ同じ面々がハシゴして 集っている 『餌付け撮影会』『ヤラセ撮影会』をはじめとした “ありがたがられる種類”に群がっての撮影会は、 まず例外なく 全てが、 そういった『迷惑な面々』が 日々 ご熱心に巡回して、
「この私ほどもの腕前をもってしても 未だに一度も撮れたことがないどころか、撮れると思ったことすらもなければ、 どうすれば あんな写真が撮れるのか 想像もつかない とてつもない写真を 毎日 何十枚でも撮っている人がいるということは、 私は もっと良い写真を 自分でも気付かないうちに 撮影に『成功』していたことを、 私は ちゃんと解っている」
「この私ですら どうすれば撮れるのか 想像もつかない 良い写真を撮れている人がいるということは、 どうすれば撮れるのかを 私が教えてあげたことで 撮れるようにしてあげたことを、 私は ちゃんと解っている」
などと、 明らかに矛盾して 実在し得ない“実績”“功績”を賑やかに語る 支離滅裂な妄想話を ありがたがられて、
「この私ですら 未だに一度も撮れたことがない良い写真を いつも撮れていたやり方をすれば、 今日も 皆が、 私がいつも撮影に『成功』している 未だに一度も撮れたことがない良い写真を 必ず撮れる」
といった、 ご自身が「わからない」「一度も撮れたことがない」と明言している通り、 実現するはずもない ご指導の恩恵に与ろうと 後を追い続ける面々に崇められて ご活躍の、 同類さん同士だけの集い。
つまり、 そういう『鳥の写真を撮っている人ごっこ』の撮影会に加わって 『そういう面々』と親交を持っている面々は、 周囲の“鳥の写真を撮っている人”からは、 もう 既に 『迷惑なネットワークの構成要員』『盗人根性まる出しさんネットワークの構成要員』として見られている、と いうこと。
そして、 それは 同時に、 『そういう集い』で 和気あいあいとご自慢し合われている、 毎度毎度毎度の 定番であり 定型の 『好まれる単語・語句の間を でたらめに繋ぎ合わせた お噺』が、
“何故か、 皆が『ここは 私が 先に見つけて 教えてあげた』”
“皆が 『私が 先に見つけていた』のは、 (自身が「今日 入った」と言っている鳥ですら、) 何故か いつも『1週間前から』”
“何故か、 (その使用レンズでは そもそも 構造上 ピントが合わせられない) 『にめぇ~たぁ~』『さんじゅっせんち』で 撮影に『成功』していることになっている”
といったものも、 語り合われている 殆ど全てが、 (鳥への知識とは関係なく “人”としての “ほんの最低限ですらもない程度の知能”さえあれば 瞬時に解るのが 当たり前の、) 実際を確認するまでもなく そもそも 実在し得ないことに気付くこともできず、 それどころか、 まさに 目の前にある リアル世界の実際とは 全く違うことにすらも 気付くことはなく 復唱し合って 称え合っている言動は、 自身が 『そういう面々』と同じ、 いわゆる“健常者”とは異なる配慮が必要とされる 知的面の特性をお持ちの方だと 明確 かつ 完全に 証明して見せている、と いうこと。
これは、 もちろん、 周囲が 『そういう面々』の存在で 多大な迷惑を被り続けていても なお 社会的な福祉観からの 寛大な配慮での犠牲を強いられていることに気付くこともなく、 ずっと リアル世界の実際とは全く別の 『ご都合がよい幻想世界』が見えてしまっている面々同士だけでの集いで暮らし続けて 荒らし回り続けている限りは、 他の皆は 写したところで 価値が無さすぎるから スルーしているものを、 あべこべに、 他の皆が 難しすぎて カメラを構えることすら 諦めてしまっているほどもの 優れた写真の撮影にまでも『成功』していると ちゃんと解ってしまったまま、 お幸せな優越感に浸り続けられるのでしょう。
でも、 もしも、いつか、その実際に気付くことができた(気付いてしまった)として、 その時に 「これからは“鳥の写真を撮っている人”の世界に歩み出したい」と思ったとしても、 “鳥の写真を撮っている人”は、 実際の経緯での 明確な根拠がある事実への 明確な意向での行動として 引き続きスルーして、 関わりを持てる可能性は とっくの昔に 自身の言動によって 永久に無くしている、というのが、 多くの面々が 既に至っている実状でしょう。
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