カワセミが 移動する道中で 水面近くの低空を直線的に飛ぶ姿。
移動途中の飛行シーンを狙うのは、 “とまり”からの飛び出しでは 先に被写体がいる状況があって 構図を決めて待って 「静体」的に撮れるのとは 全く違って、 被写体になる対象が ずっと全く何もない空間を見続けながら “いつ”“どのように”なるのか 予測でき難い 不意に来て 一瞬で過ぎ去ってしまう状況に 瞬発的に反応する 「動体」の撮り方になる。
カワセミは 形も色も 独特すぎて とてもとても小さくしか写っていなくても判別できることもあって、 日々 集い続けている団体行動さんが、 何十メートル、あるいは 100メートルを越えるような 遥か遥か遠く遠くを飛び去っていく後ろ姿にまで 一斉に色めきたって 連写しては、 写したコマの中を丹念に探し回らないと 何処に写っているかもわからない“僅か数ピクセルの青い点”を やっと見つけ出して 「飛んでいるカワセミの撮影に~ぃ~『成っ!!功っ!!』した~ぁ~~!!!」と 得意満面に見せ合い、その撮影スキルの優秀さを 和気あいあいと称え合っている情景も 少なからずあってしまうが・・・。
しかし、 極度に要約しすぎれば「飛んでいるカワセミを写す」の文言で表せる状況でも、 リアル世界での基準で使える画を撮るのは、 “僅か数ピクセルの青い点”を称え合うことが求められる集いの世界観とは 全く違う。
“最低限には使える画”を撮るのでも、 距離がとても近くないと 解像感がある画にならないのに加えて、 その他の、角度、光、背景、・・・色々な諸条件も良く揃う機会は なかなか無いので、 目視では見慣れていることでの“日常的な印象”ほど簡単ではないもの。
●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側[カテゴリー]欄の 『●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明』を参照。
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カワセミというと、 名前も姿も 一般の人にも広く知られていて、 自然観察・野鳥観察(バードウォッチング)・野鳥写真などで 特に素人さんには とかく ありがたがられる 注目度が高い種類。
その ありがたがられぶりは、 カワセミを ただ見られた(写せた)だけで舞い上がって、 自身が卓越した才能があるつもりの お幸せな幻想の世界に逝ってしまう面々も多々いて、 遥か昔から その『魔力』に囚われた多数が 延々と群がり続けている。
また、 何かと 自然の象徴のように扱われたり、 カワセミが生息していることを 自然が豊かな証明や 水質が良い証明のように語られたりしがち・・・、ですが、 現代でのカワセミは、 自然的な風景とは縁遠い“草木が少なく 川辺までコンクリートで固められた都市的な環境”も含めて、 殆どの地域で ごく普通にいて、とても身近な場所でも見られる鳥。
人の側での嗜好として ありがたがられる鳥なことと、その鳥を見つける(写す)難度とは、 全く別の 全く無関係な要素。
カワセミは、 捕食行動が 必ず水の中に飛び込むこと「だけ」に限定される生態から 活動する場所が絞れることや、 姿そのものを見つけるだけでなく 独特な声で気付くことも多くあるので、 カワセミを見つけるのは 鳥は多種いる中でも 格段に簡単な部類で、 ほんの初歩的な知識さえあれば 見つけられる機会は とても多い。
カワセミが活動している場所を探すことでは、 ダイビングから上がってくる時の声(フィフィフィフィフィといった感じ)や 飛行中の声(ツィーー、ツィーー、といった感じの、 ママチャリのブレーキ音に似た 金属質っぽい声)を憶えて 普段の日常の中でも意識しておくと、 身近すぎる場所にもいたことに あちこちで気付けるようになる。
なので、 これまで鳥への関心が少なかったことで 『あの』カワセミが そんな身近にいるとは思い描く機会もなかった 一般の人や 全くの素人さんは 『あの』カワセミを見られたと狂喜乱舞していても、 初心者の入り口に片足ぐらいは入ったかどうか・・・程度の ほんの僅かばかりの経験があるようになると、 いたるところ どこでも ありきたりなことにすぎないと知って、 ありがたがりぶりは、 あっという間に、あっけなく、あっさりと、 ものの見事に 大暴落するもの。
つまり、よくいる、 鳥の話題というと やたらカワセミが頻出する、 カワセミが来る場所を訊いて回っている、 カワセミのヤラセ撮影会に集っている、 カワセミがいるというだけで 逐一 色めきたって激写、 カワセミを見つける度に 逐一 得意満面に教えてあげている、 ・・・そういった類の言動は 「まだ カワセミをありがたがっていられるうちの いかにも素人さんですね」という姿で、 周囲の“鳥に関心がある人”は “温かい目で見てあげている”状態。
それを まだ気付けていない 素人さんが、 ありがたがる『あの』カワセミを見られた(写せた)高揚で 知識やスキルが優れていると 有頂天になるのも、 そのご自慢を お友達の内輪だけ かつ その時のその場だけの軽口として交わして 楽しい時間を過ごすのも ご自由なこと。
・・・ですが、 それは リアル世界にまで持ち出せる話ではないもの。
しかし・・・、 カワセミを見られた(写せた)だけのことを 野鳥観察(野鳥写真)を極めた達人を気取っての ご自慢の押し売りを 長年延々と続けている面々は、 どこのフィールドにでも いつでも 無数にいてしまう。
そして、 (殆どの時は、他の人から教えてもらった)カワセミが遥か遠くにいるだけのことまで いちいち教えてあげては、 カワセミの実際を知らない 素人さんや 通りすがりの一般の人には喜ばれたり、 お恥ずかしい言動だとわかっている人でも・・・というよりも、得意満面に わざわざお恥ずかしい言動をしてしまう『知的面の特性』への配慮が必要なお方だとわかっているからこそ、 (内心では嘲笑しながらでも)“大人のマナー”での対応として 「それはそれは よかったですねぇ」 「(そんなくだらないことまで いちいち)教えて下さってありがとう」的な 社交上の儀礼での 空虚で形式的な返礼(もしくは、それに似せたイヤミ)で応接して やり過ごしたりすることには、
「誰もが 一生に一度だけでも見られる奇跡を夢見て 血眼になってカワセミだけを探し続けていても それでも未だに誰にも見つけられない 『あの』カワセミを見つけることにまでも『成功』しているのは この私だけなのだから、 これほどにも鳥に詳しい この私が 皆のために指導してあげなければ!」
など・・・、 あるいは、 いちいち目を向ける価値もないにすぎないことに対して、 これもまた お恥ずかしいお方への“大人のマナー”での対応としての選択で (嘲笑する言動は表には出さずに)そっとスルーすることにも、
「カワセミを見つけるのは、 いる場所まで教えてあげても それでも誰も見つけることができないほどにまでも 全ての鳥の中で最も難しいことで、 そんな カワセミを見つけることにすらも『成功』したことがあるのは この私だけなのだから、 これほどまでにも あらゆる鳥の全てを知り尽くしていることに 尊敬と羨望を一身に集めている この私が 皆のために指導してあげなければ!」
「カワセミを写すのは、 誰もが 一生に一度だけでも撮りたい 究極の目標として夢見ていても たとえ何万回やっても 一度ですら画面の中に入れることなんかできるはずがないからと カメラを構えることすらも諦めてしまっているほどにまでも 鳥の写真の中でも最も難しいことで、 そんな カワセミの撮影にまでも『成功』したことがあるのは この私だけなのだから、 これほどもの究極の撮影スキルまでをも習得していることに 尊敬と羨望を一身に集めている この私が 皆のために指導してあげなければ!」
などなどなど・・・、 ますますお幸せな妄想を広げて、 ますます「鳥に詳しい」「優れた写真の撮影に『成功』している」つもりになって、 ますますご熱心な使命感に燃えて、 ますます滑稽ぶりを増したご自慢の押し売りにお励みになって、・・・の無限ループで、 延々と あべこべな優越感に浸って ご満悦でいられる。
当然、 いわゆる健常者からすれば、 そういう、 『知的面の特性』で、 あまりに稚拙すぎることすら まともにはできなくて、 それでいて、 あまりに稚拙すぎるにも満たないことをやっては、 自分ができたことは 何でも「他の誰にもできない 特別に優れたことに 自分だけが『成功』している」つもりの お幸せな妄想世界に暮らしているお方がご自由に動かれて、 妄想世界でのご自慢を得意満面に押し売りして 稚拙すぎるにすらも全く及ばないご指導にお励みになられる お恥ずかしすぎる言動に纏わりつかれてしまう状況は 迷惑で、 関わるのは難しいもの。
しかし、『知的面の特性』の同類さんとなると、 その醜態ぶりが理解できないどころか、 同様の妄想を 和気あいあいと語り合って 「鳥に詳しい」つもりの お幸せな妄想を より一層 広げ合っていってしまうもので、 その繰り返しで 『知的面の特性』の同類さんだけが続々と集って 団体行動さんが形成されていくことになる。
そして、 そうやって育て上げてしまった「鳥に詳しい」つもりのご自慢を駆って、 カワセミでも 他の鳥でも、 鳥関連で人がいるところを見つければ、 逐一割り込んで 鳥を追い散らしておきながら、
「ここは 私が先に見つけていたのを 教えてあげていた」
「私がここに来てあげたことで 鳥が来るようにしてあげた」
などなど・・・の 実在しようもない支離滅裂で意味不明な恩を押し売りして 通り掛かる人にまで逐一言い触らし、 更には 『知的面の特性』の同類さんのお仲間まで呼び寄せた 団体さんで ご立派なご指導をしてあげていると 賑やかに自賛し合って 場を仕切ってあげてしまっては、 無知すぎる行動で 鳥を追い散らして荒らし回って まともな写真は撮りようがない状況にし続けてあげてしまう惨事を 延々と繰り返すことに 日々ご熱心にお励みになり続けて・・・、というのも、 全くの日常的 かつ 恒常的に 無数に繰り返され続けている。
( もちろん、 実際は こんな穏やかな情景で済むはずはなく、 尾行、被害妄想を言い触らす、などなど・・・、 遥かに遥かに遥かに遥かに 酷すぎて、全く筆舌に堪えない。 )
それでも、 そういう、『知的面の特性』で『自身が実際に接している状況は理解できずに、 全く違う妄想世界が見えてしまう方々』は、まさに今 目の前にある実際のそのままを説明したところで 理解できるはずもない(だけでは済まず、更にお幸せな妄想を広げて 一層酷い事態を起こしてしまう)存在である以上、 リアル世界での「人」の社会的な慈善感覚では 周囲の いわゆる健常者が 無限に犠牲を払ってまでの配慮を求められるもので、 また、その面々に関してを話題にすることは 必然的に『知的面の特性』が絡んだ 社会的に著しく神経質な要素で、 全く数え切れるはずもない度々の迷惑を被り続けていてもなお 諦めるしかないのが 実情。
しかし、 一般の人や 全くの素人さんが 鳥の要素に関わる機会には、 (周囲の いわゆる健常者は 『知的面の特性』への社会的見地での配慮から 表立って触れるのは 最大限に避けざるを得ないことで “暗黙”になっている)その事情を知らないだろう。
実際のところ、 カワセミ(に限らず ありがたがられる種類)に群がっている団体行動さんや その集いに関わっていられる面々は、 まず例外なく 殆ど全て、 「初心者レベルでも稚拙すぎるから誰もやらない お恥ずかしすぎることをやっている」だけのことを あべこべに 「他の誰にもできない高等なことに『成功』している」ことにしてしまった お幸せな妄想世界に暮らしている、 『知的面の特性』で いわゆる健常者とは異なる配慮が必要な方々と思って、 得意満面に 盛大で華々しい文言で語られる ご自慢やご解説など 全てにおいて 文面の通りに真に受けることはできない言動として対応した方が良いもの。
一旦、話を戻して・・・
前記のように、 カワセミは、 初心者でも 僅かな知識さえあれば 身近すぎる場所でも 見つけられるようになる。
・・・のだが、 その結果、 住宅地近隣の用水路・・・ いわゆる“ドブ川”など、自然の豊かさも 水質の良さも 謳い難い場所でも見つけることにもなる。
つまり、 カワセミが生息することを 自然的な環境の良さと関連付けるのは 大いに疑問で、 そういうお噺を語っているのなら、 (街的な環境を知らない暮らしをしているでもない限り)初心者でも容易に知ることができる程度のことすら 知らないから、だろう。
しかし、 実際とはかけ離れていても “人の勝手な嗜好では都合が良い幻想”のお噺を 「鳥に詳しい」と喧伝して 得意満面にご解説してあげてしまうお方ほど、 一般の人や 素人さんには 喜ばれて、崇められがちで、 そのお方を仰いだ集い(探鳥会、自然観察会、鳥撮りの団体行動さん、・・・)がご盛況なのが 多々あること。
カワセミについて ほんの僅かな知識がある人なら、 そういうお方、そして そういう集いの面々には、 社交上の儀礼と割り切るとしても 実際との違和感が大きすぎるご解説を肯定するかのようにもとれ得る文言で応接するのは 避けたいもの。
しかし、 あまりにも簡単すぎることがわかっていない面々に その“知識”の滑稽ぶりを説明したところで、 もし その説明がわかるのなら そもそも元から そこに関わっているとは考え難く、 つまり 通じるはずがないことで、 関わるのは難しい。
なので、 そういう集いの面々には、なるべく関わるのを避けながら、 それでも ご解説の押し売りに来られてしまうことには、 できる“大人のマナー”での対応は そっとスルーして やり過ごすことぐらいだろう。
「鳥を見る」とか「鳥を写真に写す」のような “極度に要約しすぎた短文”で表せば 同じ文言に当てはまる行動をする部分がある全てが 同じ世界にいるのではなく、 それぞれは 自身相応の世界に暮らしているもの。
その それぞれは、 物理的には リアル世界での同じ場所で 全く同じ情景に接していても、 ある一方が見ているリアル世界の実際の情景と、もう一方が『見えてしまっている情景』は、 全く違う世界。
“郷に入っては郷に従え”という慣用句があるが、 これは、その前に どの“郷”に入るかの部分で 「自身が従うべき行いをできる郷に入れ」 とか「従えるものではない行いが求められる郷には 入らなければよいだけ」でもあるだろう。
だから、 ある一方は、そのそれぞれは 関わりもなく 関わりようもない 全く別の世界(郷)とわかっているからこそ、 自身はリアル世界の実際に即して暮らしながら、 別の妄想世界に暮らしている面々には『知的面の特性』に配慮した対応を 両立している。
そして、 もう一方は、『知的面の特性』の同類さん同士だけで集って語り合い 称え合っている妄想世界でのお噺を 優れた“知識”をご指導してあげているつもりで 得意満面に押し売りして リアル世界にまで持ち込んできてしまう。
それが リアル世界の実際でしょう x x x
移動途中の飛行シーンを狙うのは、 “とまり”からの飛び出しでは 先に被写体がいる状況があって 構図を決めて待って 「静体」的に撮れるのとは 全く違って、 被写体になる対象が ずっと全く何もない空間を見続けながら “いつ”“どのように”なるのか 予測でき難い 不意に来て 一瞬で過ぎ去ってしまう状況に 瞬発的に反応する 「動体」の撮り方になる。
カワセミは 形も色も 独特すぎて とてもとても小さくしか写っていなくても判別できることもあって、 日々 集い続けている団体行動さんが、 何十メートル、あるいは 100メートルを越えるような 遥か遥か遠く遠くを飛び去っていく後ろ姿にまで 一斉に色めきたって 連写しては、 写したコマの中を丹念に探し回らないと 何処に写っているかもわからない“僅か数ピクセルの青い点”を やっと見つけ出して 「飛んでいるカワセミの撮影に~ぃ~『成っ!!功っ!!』した~ぁ~~!!!」と 得意満面に見せ合い、その撮影スキルの優秀さを 和気あいあいと称え合っている情景も 少なからずあってしまうが・・・。
しかし、 極度に要約しすぎれば「飛んでいるカワセミを写す」の文言で表せる状況でも、 リアル世界での基準で使える画を撮るのは、 “僅か数ピクセルの青い点”を称え合うことが求められる集いの世界観とは 全く違う。
“最低限には使える画”を撮るのでも、 距離がとても近くないと 解像感がある画にならないのに加えて、 その他の、角度、光、背景、・・・色々な諸条件も良く揃う機会は なかなか無いので、 目視では見慣れていることでの“日常的な印象”ほど簡単ではないもの。
●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側[カテゴリー]欄の 『●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明』を参照。
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カワセミというと、 名前も姿も 一般の人にも広く知られていて、 自然観察・野鳥観察(バードウォッチング)・野鳥写真などで 特に素人さんには とかく ありがたがられる 注目度が高い種類。
その ありがたがられぶりは、 カワセミを ただ見られた(写せた)だけで舞い上がって、 自身が卓越した才能があるつもりの お幸せな幻想の世界に逝ってしまう面々も多々いて、 遥か昔から その『魔力』に囚われた多数が 延々と群がり続けている。
また、 何かと 自然の象徴のように扱われたり、 カワセミが生息していることを 自然が豊かな証明や 水質が良い証明のように語られたりしがち・・・、ですが、 現代でのカワセミは、 自然的な風景とは縁遠い“草木が少なく 川辺までコンクリートで固められた都市的な環境”も含めて、 殆どの地域で ごく普通にいて、とても身近な場所でも見られる鳥。
人の側での嗜好として ありがたがられる鳥なことと、その鳥を見つける(写す)難度とは、 全く別の 全く無関係な要素。
カワセミは、 捕食行動が 必ず水の中に飛び込むこと「だけ」に限定される生態から 活動する場所が絞れることや、 姿そのものを見つけるだけでなく 独特な声で気付くことも多くあるので、 カワセミを見つけるのは 鳥は多種いる中でも 格段に簡単な部類で、 ほんの初歩的な知識さえあれば 見つけられる機会は とても多い。
カワセミが活動している場所を探すことでは、 ダイビングから上がってくる時の声(フィフィフィフィフィといった感じ)や 飛行中の声(ツィーー、ツィーー、といった感じの、 ママチャリのブレーキ音に似た 金属質っぽい声)を憶えて 普段の日常の中でも意識しておくと、 身近すぎる場所にもいたことに あちこちで気付けるようになる。
なので、 これまで鳥への関心が少なかったことで 『あの』カワセミが そんな身近にいるとは思い描く機会もなかった 一般の人や 全くの素人さんは 『あの』カワセミを見られたと狂喜乱舞していても、 初心者の入り口に片足ぐらいは入ったかどうか・・・程度の ほんの僅かばかりの経験があるようになると、 いたるところ どこでも ありきたりなことにすぎないと知って、 ありがたがりぶりは、 あっという間に、あっけなく、あっさりと、 ものの見事に 大暴落するもの。
つまり、よくいる、 鳥の話題というと やたらカワセミが頻出する、 カワセミが来る場所を訊いて回っている、 カワセミのヤラセ撮影会に集っている、 カワセミがいるというだけで 逐一 色めきたって激写、 カワセミを見つける度に 逐一 得意満面に教えてあげている、 ・・・そういった類の言動は 「まだ カワセミをありがたがっていられるうちの いかにも素人さんですね」という姿で、 周囲の“鳥に関心がある人”は “温かい目で見てあげている”状態。
それを まだ気付けていない 素人さんが、 ありがたがる『あの』カワセミを見られた(写せた)高揚で 知識やスキルが優れていると 有頂天になるのも、 そのご自慢を お友達の内輪だけ かつ その時のその場だけの軽口として交わして 楽しい時間を過ごすのも ご自由なこと。
・・・ですが、 それは リアル世界にまで持ち出せる話ではないもの。
しかし・・・、 カワセミを見られた(写せた)だけのことを 野鳥観察(野鳥写真)を極めた達人を気取っての ご自慢の押し売りを 長年延々と続けている面々は、 どこのフィールドにでも いつでも 無数にいてしまう。
そして、 (殆どの時は、他の人から教えてもらった)カワセミが遥か遠くにいるだけのことまで いちいち教えてあげては、 カワセミの実際を知らない 素人さんや 通りすがりの一般の人には喜ばれたり、 お恥ずかしい言動だとわかっている人でも・・・というよりも、得意満面に わざわざお恥ずかしい言動をしてしまう『知的面の特性』への配慮が必要なお方だとわかっているからこそ、 (内心では嘲笑しながらでも)“大人のマナー”での対応として 「それはそれは よかったですねぇ」 「(そんなくだらないことまで いちいち)教えて下さってありがとう」的な 社交上の儀礼での 空虚で形式的な返礼(もしくは、それに似せたイヤミ)で応接して やり過ごしたりすることには、
「誰もが 一生に一度だけでも見られる奇跡を夢見て 血眼になってカワセミだけを探し続けていても それでも未だに誰にも見つけられない 『あの』カワセミを見つけることにまでも『成功』しているのは この私だけなのだから、 これほどにも鳥に詳しい この私が 皆のために指導してあげなければ!」
など・・・、 あるいは、 いちいち目を向ける価値もないにすぎないことに対して、 これもまた お恥ずかしいお方への“大人のマナー”での対応としての選択で (嘲笑する言動は表には出さずに)そっとスルーすることにも、
「カワセミを見つけるのは、 いる場所まで教えてあげても それでも誰も見つけることができないほどにまでも 全ての鳥の中で最も難しいことで、 そんな カワセミを見つけることにすらも『成功』したことがあるのは この私だけなのだから、 これほどまでにも あらゆる鳥の全てを知り尽くしていることに 尊敬と羨望を一身に集めている この私が 皆のために指導してあげなければ!」
「カワセミを写すのは、 誰もが 一生に一度だけでも撮りたい 究極の目標として夢見ていても たとえ何万回やっても 一度ですら画面の中に入れることなんかできるはずがないからと カメラを構えることすらも諦めてしまっているほどにまでも 鳥の写真の中でも最も難しいことで、 そんな カワセミの撮影にまでも『成功』したことがあるのは この私だけなのだから、 これほどもの究極の撮影スキルまでをも習得していることに 尊敬と羨望を一身に集めている この私が 皆のために指導してあげなければ!」
などなどなど・・・、 ますますお幸せな妄想を広げて、 ますます「鳥に詳しい」「優れた写真の撮影に『成功』している」つもりになって、 ますますご熱心な使命感に燃えて、 ますます滑稽ぶりを増したご自慢の押し売りにお励みになって、・・・の無限ループで、 延々と あべこべな優越感に浸って ご満悦でいられる。
当然、 いわゆる健常者からすれば、 そういう、 『知的面の特性』で、 あまりに稚拙すぎることすら まともにはできなくて、 それでいて、 あまりに稚拙すぎるにも満たないことをやっては、 自分ができたことは 何でも「他の誰にもできない 特別に優れたことに 自分だけが『成功』している」つもりの お幸せな妄想世界に暮らしているお方がご自由に動かれて、 妄想世界でのご自慢を得意満面に押し売りして 稚拙すぎるにすらも全く及ばないご指導にお励みになられる お恥ずかしすぎる言動に纏わりつかれてしまう状況は 迷惑で、 関わるのは難しいもの。
しかし、『知的面の特性』の同類さんとなると、 その醜態ぶりが理解できないどころか、 同様の妄想を 和気あいあいと語り合って 「鳥に詳しい」つもりの お幸せな妄想を より一層 広げ合っていってしまうもので、 その繰り返しで 『知的面の特性』の同類さんだけが続々と集って 団体行動さんが形成されていくことになる。
そして、 そうやって育て上げてしまった「鳥に詳しい」つもりのご自慢を駆って、 カワセミでも 他の鳥でも、 鳥関連で人がいるところを見つければ、 逐一割り込んで 鳥を追い散らしておきながら、
「ここは 私が先に見つけていたのを 教えてあげていた」
「私がここに来てあげたことで 鳥が来るようにしてあげた」
などなど・・・の 実在しようもない支離滅裂で意味不明な恩を押し売りして 通り掛かる人にまで逐一言い触らし、 更には 『知的面の特性』の同類さんのお仲間まで呼び寄せた 団体さんで ご立派なご指導をしてあげていると 賑やかに自賛し合って 場を仕切ってあげてしまっては、 無知すぎる行動で 鳥を追い散らして荒らし回って まともな写真は撮りようがない状況にし続けてあげてしまう惨事を 延々と繰り返すことに 日々ご熱心にお励みになり続けて・・・、というのも、 全くの日常的 かつ 恒常的に 無数に繰り返され続けている。
( もちろん、 実際は こんな穏やかな情景で済むはずはなく、 尾行、被害妄想を言い触らす、などなど・・・、 遥かに遥かに遥かに遥かに 酷すぎて、全く筆舌に堪えない。 )
それでも、 そういう、『知的面の特性』で『自身が実際に接している状況は理解できずに、 全く違う妄想世界が見えてしまう方々』は、まさに今 目の前にある実際のそのままを説明したところで 理解できるはずもない(だけでは済まず、更にお幸せな妄想を広げて 一層酷い事態を起こしてしまう)存在である以上、 リアル世界での「人」の社会的な慈善感覚では 周囲の いわゆる健常者が 無限に犠牲を払ってまでの配慮を求められるもので、 また、その面々に関してを話題にすることは 必然的に『知的面の特性』が絡んだ 社会的に著しく神経質な要素で、 全く数え切れるはずもない度々の迷惑を被り続けていてもなお 諦めるしかないのが 実情。
しかし、 一般の人や 全くの素人さんが 鳥の要素に関わる機会には、 (周囲の いわゆる健常者は 『知的面の特性』への社会的見地での配慮から 表立って触れるのは 最大限に避けざるを得ないことで “暗黙”になっている)その事情を知らないだろう。
実際のところ、 カワセミ(に限らず ありがたがられる種類)に群がっている団体行動さんや その集いに関わっていられる面々は、 まず例外なく 殆ど全て、 「初心者レベルでも稚拙すぎるから誰もやらない お恥ずかしすぎることをやっている」だけのことを あべこべに 「他の誰にもできない高等なことに『成功』している」ことにしてしまった お幸せな妄想世界に暮らしている、 『知的面の特性』で いわゆる健常者とは異なる配慮が必要な方々と思って、 得意満面に 盛大で華々しい文言で語られる ご自慢やご解説など 全てにおいて 文面の通りに真に受けることはできない言動として対応した方が良いもの。
一旦、話を戻して・・・
前記のように、 カワセミは、 初心者でも 僅かな知識さえあれば 身近すぎる場所でも 見つけられるようになる。
・・・のだが、 その結果、 住宅地近隣の用水路・・・ いわゆる“ドブ川”など、自然の豊かさも 水質の良さも 謳い難い場所でも見つけることにもなる。
つまり、 カワセミが生息することを 自然的な環境の良さと関連付けるのは 大いに疑問で、 そういうお噺を語っているのなら、 (街的な環境を知らない暮らしをしているでもない限り)初心者でも容易に知ることができる程度のことすら 知らないから、だろう。
しかし、 実際とはかけ離れていても “人の勝手な嗜好では都合が良い幻想”のお噺を 「鳥に詳しい」と喧伝して 得意満面にご解説してあげてしまうお方ほど、 一般の人や 素人さんには 喜ばれて、崇められがちで、 そのお方を仰いだ集い(探鳥会、自然観察会、鳥撮りの団体行動さん、・・・)がご盛況なのが 多々あること。
カワセミについて ほんの僅かな知識がある人なら、 そういうお方、そして そういう集いの面々には、 社交上の儀礼と割り切るとしても 実際との違和感が大きすぎるご解説を肯定するかのようにもとれ得る文言で応接するのは 避けたいもの。
しかし、 あまりにも簡単すぎることがわかっていない面々に その“知識”の滑稽ぶりを説明したところで、 もし その説明がわかるのなら そもそも元から そこに関わっているとは考え難く、 つまり 通じるはずがないことで、 関わるのは難しい。
なので、 そういう集いの面々には、なるべく関わるのを避けながら、 それでも ご解説の押し売りに来られてしまうことには、 できる“大人のマナー”での対応は そっとスルーして やり過ごすことぐらいだろう。
「鳥を見る」とか「鳥を写真に写す」のような “極度に要約しすぎた短文”で表せば 同じ文言に当てはまる行動をする部分がある全てが 同じ世界にいるのではなく、 それぞれは 自身相応の世界に暮らしているもの。
その それぞれは、 物理的には リアル世界での同じ場所で 全く同じ情景に接していても、 ある一方が見ているリアル世界の実際の情景と、もう一方が『見えてしまっている情景』は、 全く違う世界。
“郷に入っては郷に従え”という慣用句があるが、 これは、その前に どの“郷”に入るかの部分で 「自身が従うべき行いをできる郷に入れ」 とか「従えるものではない行いが求められる郷には 入らなければよいだけ」でもあるだろう。
だから、 ある一方は、そのそれぞれは 関わりもなく 関わりようもない 全く別の世界(郷)とわかっているからこそ、 自身はリアル世界の実際に即して暮らしながら、 別の妄想世界に暮らしている面々には『知的面の特性』に配慮した対応を 両立している。
そして、 もう一方は、『知的面の特性』の同類さん同士だけで集って語り合い 称え合っている妄想世界でのお噺を 優れた“知識”をご指導してあげているつもりで 得意満面に押し売りして リアル世界にまで持ち込んできてしまう。
それが リアル世界の実際でしょう x x x
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