ともかく世界は、「白」と「黒」その等価に寄って成り立っていて。
現世的には等価ながら「白」を優先する、そこに進む先と利益が有る、という事には成る。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「虚数とかの定理って、誰が決めたんですか?」とか聞いてくる生徒は多分めんどい。
この場合「黒」それは悪か?というと、単純に「裏」だ。理解では1か2の、どっちかが「黒」でどっちかが「白」である。ある種の評価値が逆に成っている、だけで、両者は等価な物としてあり基本、それは行き来が成り立つ。白の領域で不要は黒には必要で、黒に不要は白には必要だ。両者は必要を得て不要を捨てる、そう言う感じを繰り返す事で減退を防ぎ、そして最終的には内需の拡大へと繋がっていく。
仕事に疲れて遊びに行って、遊びに飽きて仕事に戻る、この循環で生産性は向上する、訳だが。
現状、何処に問題が?というのは、ちょっとケースバイケースではある。自分の視点では「遊び」の部分にあまりにも「不足」が有って満足できない結果、仕事に戻れない、というのが最大の問題ではある、が。仕事の側では、スタッフがあまりにもやる気がない、そう言う事には成るかもしれない。一面はある、仕事の「倫理」を遊びに持ち込んでしまう時、遊びは仕事の延長に成ってしまう。それではそこでの満足というか?ストレスの発散、そう言うのは得られない。仕事のストレスは遊びでも発散できずただ、溜まっていくだけ?それは不健康だ。
その時、仕事の倫理を遊びの領域には持ち込まない方が良い、訳だけど。
良くも悪くも主観では、「遊び」は、「仕事の意義」必要性、労をねぎらいつつ”それ”を語らねば成らない、というのは基本的な需要としてはある、気はする。そして?「仕事の領域では無くていい」要素こそが、遊びの領域では必要な話にはなる、訳で。戦艦の乗組員は、各自の仕事を着実に熟さねば成らない、それをしている様とは社会的にも推奨される”それ”である…もちろんゴジラと命がけで戦う様な話が有っても困るが。「何の為にこんな事をしてるんだろう?」仕事でのストレスの多くは、実際は遊びの領域にある”それ”で癒され労われる、そう言う面は強く、或いはそれこそ遊びの需要ではあって。
勉強すると、何か良い事が有るんでしょうか?
最近じゃなくても、近年は返答し難い話が増えた、そう言うのはあるだろうか。
自分の得意不得意が解る、というのは一面として大きい。また、少なくともパックマンの二面を超えられる程度の理解力と反応は「最低限」社会に出るなら必要、だ。要求が高度な職場を志すなら、より難易度は上がる、訓練は無意味ではない。高度な要求を満たせる職場程、給料も高いのは道理ではあり。お金と余暇のバランスは考える話だが、暇な貧乏よりは、忙しい裕福の方が、社会的にも推奨していい絵ずらである事は間違いないだろう。勉強それは、一応はその「高度さ」を提供はしてくれる。
…しかし、高度な筈の人々に不足が深刻である、それはまあ、打開すべき話の一つではある訳だが。
「意味がない」と言う実感は、反論し難い程度に重い。「どうすれば経済は回復しますか?」雇用は増大するんでしょうか?如何なるテキストにも載ってない、勉強しようがない話が事実だからこそ、平成はあそこまで現状が悪化した、訳で。昭和の頃はまだ、昭和天皇には側室制度は「感覚で」残っていただろうし?それもあったろう、彼の創案は表裏の妥協を取る事が出来た、面は或いはある。”それ”に依存できる状況もあった…良くも悪くも運が良かった状況は、あまり長く続かなかった訳だが。
その辺は、テキストに載ってない。世界の打開を目指す必要があるのに、RPGの様にお使いでは話が先に進まないのだった。これは研究せねば解らない話だった、ろう。そして、それは推奨もされてなかった、自分も結論では推奨していない。深く考えすぎても、返答に困るだけではあり。
それでも一応、施政者に一夫多妻を要求できず、そして昭和天皇の様な「王の権威」その特異もまた容認できない、状況の現在を、何とか乗り切る上での感覚は、少し打開し得た?部分はある。表をno.1、裏をno.2、表を主体として、ほぼ等価な存在として両者に王を担当してもらう。何となく、だ。少しはこれで、責任者を避ける意識に変化が出てくれれば、もう少し世の中は軽くなるのでは有るまいか。
勉強した結果ですか?
今の問題は、まあその辺かも知れない。