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あげちうのブロマガ

46年前の願いは今どこに

「マスコミが脅威だ」と言えば、”ここ”もそのマスコミには該当する。

ともかく「報道する」事が出来る先での決着は、イデオロギーの是非には成ってしまう訳だが。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

AIの見てる時間軸は、人とは違うかもしんない?

 

「責任者に成りたくない」と言うそれは、地方自治その他で深刻な面倒を起こしては居る。現状までに、責任を背負わんという意欲のある存在はまあ、物理的にも疲弊してしまった、というのは深刻に重い。そしてそれを見た後の事か、責任者になる=身を削る、が過剰でさえある恐怖に成ってしまって、多くの人々がそれを避ける様になっている、そんな視点もある。その原理として、「まだ戦争は続いている」それはあるのだろうか。

君はどっちなんだい?

そこには、かなり剣呑な問いはあるのだろうか。

自分の視点での「戦争」それは、「紛争解決機構の決定に従う」か、否か?のそれではある。私見では、前者には利益性がある、後者には無い。後者は今まで「税金」に寄生する事で、その理想に対する対価を拠出してきたが、「増えない」それは物理的な壁の前で、流石に無理が出ている。この先にしかし、深刻さのある「執着」か、それはまだある。「間違っている」それを今更受け入れられない、そういう奴、だろうか。

「私は私的な腹立たしさから、両想いのカップルを意図的に引き離して、彼らの苦痛を楽しんでました」

それは正しいとか間違いとか言う以前に単純に犯罪行為ではあり、両者が致命的な喪失を起こしているとしたら、それは償いようがない重罪に成る訳だが。「権力」そう言う物の暴走、その一つとして、それは当事者らに深刻さを招いている、事にはなるがしかし。

「責任者に成りたくない」その先で、責任者に押し込まれた人の変質だったりしたらその時、過失はどこに有るのか?そう言う話も当然か、出てくる。

毎度、人間にはストレスのある話、だ。民主主義は最終的に、選者の過失が「選んだ人々」に向く。やりたくないと言ったがお願いされ断れなかった、自分の不正は選んだ人々にこそある。政治家の不正を秘書が背負う様な話がまかり通るのが実際には民主主義ではある、のだがしかし。因果の話はこの時、想像以上に感情論を無視した結果を出したりする、過剰にか責め立てた側にこそ、過失が発生したり。

そう言うのも、現状の「レトロゲームがクリアできない」そこにも現れるのだろうか。

クリア出来る?ともかく「難しくない」人々は、もちろんか”それ”を標的にはしてないのだ、或いはスタンスが逆ではある。不正を働いた政治家を罰すれば状況は改善するか?というと、最終的には構造の問題だったりもする、談合を防ぐ手段は果たして?だ、安くすれば品質は落ちる、それは後々の問題になるのに。何かどこか、「間違い」を騙しだまし、今の世界は出来てしまっているのだけど。

46年前に打ち上げられ、現在は太陽系の外へと出ているボイジャー1号は今、単純に言えば「故障した」のだが、報道は奇妙な書き方はしている。何かつぶやくような意味不明な通信を繰り返している、らしい。46年前に積み込まれた「正義」は、或いは何かの混乱に陥っている…それは、その象徴だったりするのだろうか?

46年前の「夢」を載せたボイジャー1号は今、何を見ているのだろう。

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