ともかく、責任転嫁で”自分”に責任が来ない、というのは重い話。
問題しか起こしてない「民主主義」が何故?という、そこにあるモノ、でさえある。
本日のダイス
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白7 2524
世界は民主主義を何故選択するか?という理由の一つに、「誰も責任を問われないから」と言うそれは重い。選挙で選ばれた政治家がミスをした、としても。最後の責任は「誰が選んだのか?」と言うそこには至る。結果、良くある様に「禊は済んだ」と言う感じで憤りが残ったまま彼らは失職もせず、そして問題ある政策さえそのまま続いたりする、訳だ。前々から感じていた話、この時残る「誰の責任だ?!」は、人々の意識の中を走り回り、そして何かの歪みの原因には成ったりする。
それでも、「誰も責任を問われない」それは、選択として重要な話。
道理は道理であり、そしてまた、過失を問うにしろ、人間的な限界、というのも重い。創作の現場にしろ?元気のある若手、は逆に過去の焼き鈍ししか作れない(”勉強”した事を再現できる、のが有能の証ではあり)、そして目的は自身のアピールでしかない場合が殆どだし?かといってベテランにしろ市場とは年齢その他がズレちゃって、明確な「需要」が解らない、という絵はある。老齢で有りつつ若者需要が解ってる、というのも良い絵とは言いがたく…その時、不意に「正解」それは消えてしまう、それは良くある話で。
そんな時、民主主義以外にほぼ、選択肢はない。多数決の多数、それは物理的でさえある正解にはなる。
何をやるにしろ、世間の支持?理解、そう言うのを無視する訳にはいかない、訳だが。
一応マクロな多数決、”それ”が間違える、という事は意外と少ない、気はする。ただ「責任」と言うそれを考える時、どうしても前例踏襲に陥るし、そして、”それ”を今の先人に要求もしにくい、そんな現実も重くある。世間が理解してくれない、というそこには理由があり、返答が無い、それも今は意外と少ない事態だ。カウンタ数値は制御されている、としても。公示され人目に触れた物は、相応の意味や、或いは「責任」をそこに背負い、そこにあり続ける事には。ネット動画以外の環境で、BANは自分もまだ未経験だ。
強力な独裁性は、その先で「不要」を創る場合が殆どではある。若手のそれはつまり「今までの人々が出来る事は私にも出来る」そのPRに過ぎず、その職業を希望する時、それは先人を追い出せという要求でしかない。この時の正義は何処か?と言えば・・・でもケースバイケースではある。でも多く、残るのは先人の方ではあり。
今は人手不足というより、暗黙の失業者が多いだけ、そう言う状況かもしれない。
起業にしろ同じ話だ、「市場」と言う職場に対して新たな需要も無いのに入ろうとすれば、そこにあるのはもっとひどい「戦争」には成る、生き残る為の殺し合い。そういうストレスの中の「緩衝領域」として、「アダルトビデオ」その領域が必要とされた、という時。現場の誰に責任を問えば?それは混沌とする。
「仕事をしろ」と言う、”それ”に反発した末路にしろ、そこに残り続けた理由は、簡単には否定できない。
苛立ちと理解と、それは奇妙な座談会を続けては居る。