それはちょっとズレては居る。
「テレビを見る」必要は有るのか?という、そんな命題はある。
というか、その行為の必要性、というか。
ショートサーキット出張版読み上げ動画6631
家庭用ゲーム機、と言うのが何故誕生したか?と言うと、「テレビで見たい番組が無い場合、どうすれば?」と言う疑問への返答だった、と言う話が有って。”それ”は現在、Youtube等、ネット動画でも盛んになって来ていて…正直「テレビ、もういらないのでは」そう言う、それは次第にひしひしと、不安さえ伴いか、膨らみつつはある訳だ。
テレビ番組も、平成に成って「面白くない」そう言う声が、ちょっと強くは成った。「王の権威では無い」独裁性、それがちょっと尖り始めたから、そうは言えるかもしれない。テレビの必要性?それは、シニア世代の必要性、”それ”でさえある。昭和は問題なかった、”ここ”を通して昭和の栄華があったそれは間違いない。今は、そう言うのが起こしにくくは成ってしまった。昭和天皇か、”それ”はテレビに何を見ていたか。
テレビは、”仕事”をしているのだろうか。
テレビが、テレビとしての自立?を考える時、「放送した内容に対して対価が支払われる」”それ”を確約せねばならない、訳だが。自分も今も、そこは疑問ではある、「お題は見てから」それは、理想論に近い話だ、中々、客は簡単には、お金を払おうとしない。
一番解りやすい?のが、「100万円やるから90万円位下さい」それは、確かに買い手は付くだろう、もちろん、それじゃ意味は無い訳だけど、平成?かは、”それ”を強要してしまった、そう言うのはあるのかもしれない。
定義的には、”それ”が軽微でも、「売春」では、ある、費用対効果が悪いのだ。この肯定が、そのまま経済の衰退に直結する、利益は必要だ、しかし。
自分の主観は、果たして正義、正解、だろうか?
ともかく「余計がある」時、それは、”余計として捨てる事が出来る”訳だ。
「余計がある」人が、或いは昭和の頃、テレビを運営か、していた。それは無意味だ、それは解っていたし?しかし逆に必要経費でさえあった…そう言うのを払わないと?自身に対しても何かの安定は無いのだ。”それ”は或いは、運営する人の主観でしか無かったろうか、だから、その人が居なくなった時、その主観と理解もまた、何処かへ消えてしまった。
そして、何かの体感的な物、だ。自分の給料、自分の環境、それを維持する上で、「無駄」無意味それは、言うなら環境への支払いそれは、ちょっと必要な物として有る訳だ。その無意味な何かが消費?される事で、環境はプラスを得る事が出来、何だか運営者に、対価としてそれは発生する。
かの、スーパーマリオ発案者である任天堂の宮本氏は、その方法論として「一度作った企画を捨てて(データとしても残さず)、もう一度再構成する」と言う事をしている、と言う話があって。それは前者も後者も「同じモノ」なのだ、単に、最初のそれが無駄なだけだ。でも?その「無駄として捨てる部分」が或いは、その時、その給料となっていた、のかも。
単に動いてるだけのパソコンを、不意に眺めている時間があって。
テレビに実際に必要なのは、”そう言う状態”ではある気がする、「±0」が形成されている時、合算すれば”それ”は「何も映っていない」のと変わらない、訳だ。”それ”が完全である、なら、何処かで無駄は発生してるし、その許容?そう言うのは必要になる。”それ”を許容する事が逆に、自身への対価として発生する、のか?
そこに神が居る、そう言う事、だろうか。