因果を考えてもしょうがない部分はある、が。
ファミコン、という大ヒットハードは、数多のハードを駆逐してある。
そう言うモノだ、と言う理解の、その先に有る現状ではあって。
「エヴァンゲリオン世代の頭の悪さは何とか成らんのか」
出来ないと解った事を、なんでやろうとするんだ?
それ、あんた昨日のブロマガでやろうとしてなかったか?
ショートサーキット出張版読み上げ動画6628
…どうも、そう言うパワーを否定し難い。
自分は良くも悪くも、「死力を尽くしたそれが売れなかった」という、重い経験が今は有るので…相応の自制は効く?のだが。この辺、上手く行った人と失敗した人の明暗が、視点では逆に成っている感覚はある…上手く行った人々は、その成功体験に引っ張られて、軌道修正が出来ない訳だ。失敗した人々は、今は理解と共に間違いを踏みにくくなり…しかし、”それ”の成功が、上手く行った人々を、ヒステリックに刺激する、訳で。そして、”それ”を自分より弱い立場へとしわ寄せる訳だ。”それ”が終端に至る時?そこには犠牲者が出る。
衝突する狭間に居る、それは不意に、自覚する所ではある。そして、圧せば何とかなる!が、可能性としては効いてしまう現実もまた、少し自覚する所、だ。”それ”をでも「成功した」という理解の果てに、現状はあって。その言動は、看過し得ない。
「売春婦なら自覚して潰れて死ねばそれで良いのに、なんでそれを嫌がるんだ」
”ゴミ”を片づけなければ環境が汚れてしまうんだよ!
平成の成功者らもまた、結局は、ここに陥る訳だが。
ちょっとした、嘘だ。
「全てを受け入れる事が出来ます!」
インターネットさえも、それを大々的にPRしつつ、”自分にとって”嫌いなそれは、かなり明確に排除した訳で。
「排除される理由は?」
それはあくまでも、「その人が嫌いなだけ」でしかない、主観の問題だ、市場が、非常に独裁的に統制されていてそれを許容してきた、そのツケの様な話ではある。
自分は、良くも悪くも状況がある、「最後は紛争解決機構で決着にしよう」それにより、対立する意識の共存と、「自制」を要求はする。しかし逆の視点では、対立と衝突は常にある、訳だ。理解としても一夫多妻の容認は、少なくとも「エヴァンゲリオン世代」の”それ”じゃない。「第三の選択ってあると思いませんか?」は、エヴァンゲリオン世代は結論では、許容し得なかった。
多くの歪みや破綻、”それ”はその辺から発生はしている。
「切り捨ては必要なんです」
「昭和天皇」と言う、唯一無二によって統制があった時代と、今と。それを昭和天皇無しで、”そのまま”継続しようというそれは、結論では言えば破綻している、「エヴァンゲリオン」旧劇場版のラストの様に、だが。
自分も、”あれ”に希望と言うかを見てしまった?のが、大いなる厄災の始まりだったろうか。あれじゃダメだ、それを、自分の「黄昏の狩人」が下敷きだった結果だろう、許容?してしまった。制作側の理解と、自分の理解と、そこには大いなる溝は有った訳で。
「それは出来ない」のだ。
全てを統一した意識によって「その趣味に合う様に」調整した”美しい環境”と、雑多な意識が粗雑に自分の願いを放り込んだ、幼稚園のおもちゃ箱の様に、ある意味で「乱雑な環境」と。どっちが良い?と言われて、「後者」と言うには、自分も自分に嘘を付いている部分は、ある。
古くて汚くてもう使えないモノなんか捨てたら?
どんな形であれ、それは何かの威圧的な、非道さを持って、そこに有るのだ。
「瓢箪で魚を捕る方法」それは、エヴァンゲリオン世代の冷笑と共にはあろうか。
結果は、何処に。