対立は続いている。
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結局、ミャンマーの騒乱は、民主派と軍部の対立、という二択に集約はしていく様だ。民主派は独自政府を樹立、党首をスーチー女史に指名し、軍部との対立を明確化した、が。”そこ”に至るまでに、既に700名以上の犠牲が出ている、それはどっちに責任があるのか、不意に混沌はある。選挙結果に不正がある、現行の経済は好ましい状態じゃない、このまま放置していたら国は衰退する一方だ、だから。それに対して直接的に関わった民主派が反発するのは、微妙に道理には反する感覚はある。
結局、スーチー女史を党首にするなら、責任はスーチー女史が納得しなかった、事に起因してしまうのか?ではあり。
ちょっと、皮肉的な感覚では見ている自分は居る。
民主主義には、ちょっと大いなる失望はあるから、だが。
何だか、不意に「スーパーファミコン」そこに残っているかもしれない混沌、その辺に意識が向いてしまった。個人的にか最近、ファミコン復活計画?的な事を考えたりもしていて、その辺の進展かもしれない。
果たして当時、スーパーファミコンと言う選択は正しかったのか。
ファミリーコンピュータとは、何の先に有るハードだったのか。
ともかくある種、状況を統一した、その先に有る、一つの破綻その絵ではあって。
ソフトウェア屋は当時、ハード戦争に振り回された感覚はある。それは実際には、「ゲーム機」その環境でも、もっとハードにあった訳だ。今では名も知らないハード、そう言うのはかなりあって、そしてそこにも多くの著名コンテンツが参加していた。しかし、ファミコンとはその先に残る、唯一と言う、そんなハードとして今に名を残す訳だが。
当時の感覚だ、高校野球のトーナメントで負けたチームは、勝った側に何を期待するか、何を理解し撤退したか、ではある。自分らが負けたチームが、自身らの願いを果たすのなら?それはそれで良い。ファミコンは、そう言う最後に有る一つ、だが。
”それ”が「まだ使える」十二分に市場があるのに終わってしまう、それで良いのか。
当時の民主主義、その選択ではある。そしてそれは結論で、その辺の「切り捨て」を、残酷に行ってしまった訳だ。切り捨てられた側には、重い無念が、或いは呪いとなって残った、約束だった筈だ、理想的な環境を創ると。最後の最後でそれは裏切られる。
スーパーファミコンは、どうも私見では、市場的に活性化したとは言い難い結果に成った。ソフト単価の高額化は、ある意味での如実な発露だろうか。収支が悪くなり単価を上げざるを得なくなり、それが更なる。任天堂一強時代は終わりを迎え、再びの群雄割拠に陥る訳だが。
実際にはもっと、その変化には大きな問題が隠されていた、のかも。
”衝動”でしか、当時の理解は出来ない感覚はある。体感的に「戦争は良くない」それへの全否定が奇異な行動へ至る様な、そう言う。現状、ミャンマーの民主派を正義と言えない感覚、それは当時通ったか否か。スーチー女史への主権移譲がスーパーファミコンへの変化だったのなら、それは成功したとは言えない訳だが。
何をするべきだったか、どうするべきだったか。
解らない、ただそこに、衝動だけが残る。
※今回からタイトルイメージつけます。
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