あげちうのブロマガ

世界の奥底に開いていた穴

今のところあるのは、「正論」その壁ではある。

戦争で何万人が死のうとヒットラーは正義である!は、通らない。

 

「戦争は嫌だ」それは大前提だ。しかし戦争その否定は結局は独裁者、それを呼んだりする。それはどれだけ上手くやろうと最後は圧政、切り捨て、横暴の渦に飲み込まれる…そして外部に”対抗する独裁者”を産み、破滅的な戦争へ至る。「独裁者を作っては成らない」時、しかしそれはそれで最後の選択、それはどうするのか?だ。民主主義の決定、それであっても自身に不利益なら反発は必定、その時の決着とは。一応この時、返答は一つしかない、「紛争解決機構で決着にしよう」ゲームとしての戦争なら?誰も死なない。そしてその戦争は現実のそれと大差ないのだ。

「私が神に成って全てを!」それは単純に最初に戻る主張ではある。

「現実の戦争を回避する為に、仮想現実の戦争を許容する」そこで出た決定に依存する、限りは、物理的な損害を伴う戦争、それは起きない。”全て”に対して平等な態度で応じるのが物理でもある、サイコロの出目は基本制御できない。「独裁者は要らない」時、例え小さな個人創作としても”それ”が芽に成るのならどんな優れた主張だろうと「駄目」として、それは価値に成らない。

「世の中は間違っている」創作者がまず越えねばならない壁は、自身の中に有ったりする訳だが。

一応、この正論の壁は今も、重い壁として不動ではある、ほぼ行き止まり。昭和の頃は、或いは平成であっても、その時、”それ”を形成してるのは「誰か」だった、面はある。実際の壁は人間の疑問に返答などしないから、だ。その場で何を悟るか?は、その個人のそれまでの歩み、そう言うのに依存する。「神に勝つ事は出来ない」という返答をそこで得ると?時には「つまり私が神だという事だ」そんなオチに成ったりする。矛盾に憑りつかれた後は、ヒットラーの後継者として、何故か世界を巻き込む歪みの始まりに成っていく訳だが。

”人間”がそれに逆らえない時、世界は歪んだ正義に支配され、そして大きな損失と共に破綻し、一つ学んで次へ進んでいく事には成る訳だが。

「頑張れば頑張るほど窮乏していくのはおかしい」世界は間違っている、それも一つの歪んだ正義、だったろうか。市場は一定、なのに出荷量が増えて行けば自然と商売が成り立たなくなる、それはどの業界だってそうだが…農業は特にか、”それ”に陥りやすい、そう言う面はあるのかもしれない。うまく出来てたくさん採れて、しかし市場はその半分も受け入れない時、生産者は値段を下げて売ってしまう、その結果、”次”はその価格が標準に成っちゃう訳で。そして室内の閉鎖環境で生産できない時、どうしても災害や盗難、そう言う被害に会いやすいのも農業ではあり。「理不尽だ」それはその場に、深刻な悪魔、それを呼びだしていた?

邪に手を出す末路として、か。”信仰”としては、マクロで見る時、そこにあるのは「妥当」それではある。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事