言葉にすると、どうもズレる感じは、有る。
良くも悪くも、人間と言うのは一人で一つの種である、そう言う事だろうか。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
タブーの先に未来がある様な気がする、物言いの先の行動
比喩なく動物として、猿にとっての生きる道を、飼い犬に語っても無意味だ。そう言う感じでつまり、自分の正義を他者に語っても最終的には、相手の”理解”による変換が無いと伝わらない、それはまあある。
ともかく、鳥山明氏の絵柄は、最終的には彼の個性であって?それを、他者が真似するのは最終的には困難が残る、そう言う現実はまあ、ある。彼にとっては永久機関の様な話だ、利益を求め世間が彼の絵柄を真似ようと思えば思うだけ、彼にとっては”獲物”が増えた…そんな状態だったのかも。
多くのクジラはオキアミなどのプランクトンを食べて暮らしている。そう言うニュアンス。
なんと言うか。「人が食べたければ、人を創って食べればいい」そう言う感じには、なる。
怪奇。
男性的なその衝動であれば?”それ”を絵にすれば良いだけ、ではある。自分が好ましいと思う物を”絵”に描くだけ、だ。それへの理解が十分であれば、ともかく必要な情報がそこに載って居れば?それは「それ」として機能する訳だ、自身にとっては。売春婦への衝動が発生したら、「どんな?」”それ”を絵にすればいい。それで、或いは必要とする如何なる存在さえ”それ”として用意できる訳だ、理屈の上ではこの時、売春婦は不要になる。
多くは良くも悪くも、”そこ”までの再現度には届かないからこそ、リアルを求める事には成るのだが。
「萌えキャラ」は、良くも悪くもその「性欲処理として必要な女性像」それを、十二分に満たしつつ「誰?」を最終的には特定し得ない、という生成物、ではある。理屈の上では、性欲処理に関しては”これ”が有るだけで必要としなくなる、訳だ。女性にとっては身代わりの厄除けに、男性には無駄な徒労と加害を避ける為に、双方から必要とされる「人っぽいけどちょっと違う物」として、萌えキャラそれは今の需要を築いた、訳だが。
そこで解っている事として、人間をどれだけ食おうが、無理は無理だ、という事ではある。
そして需要は、その先を求めて、何かの暴走に至った、そう言うのも、ある。
「無理を超えた先にこそ未来がある」可能性が見える、それは、漫画にしろゲームにしろ同じだ。しかし前者は荒唐無稽で良いが後者は「出来る」事しか認められない、そう言う現実はまあ、ある。そして状況は前者よりも後者、今はそっちに比重を乗せていて。「面白い」は、次第に具現性を求め始めた、それは一つの変化として。ファミコンの沙羅曼蛇やグラディウス2の様なモノこそを求める時、漫画にしろ「面白い」は大分変化する事には、成る。
「今のこんな世界じゃ願いは満たせない!」
そう、その時「世界その物を変えてしまえばいい」ファミコンはスーパーファミコンに、という。鳥山明氏の?或いは「漫画の」理解の、それはでも、一つの限度に至った、そう言うのはあるのかも。しかし。
「この世界では勝てないとしても、違う世界なら」
今の「紛争解決機構」それが無意味に成る世界それをまだ、「漫画」は探しているのだろうか。
それが失われるのも、何かの失望はある訳だけど。