ともかく「平等」それは、面倒な話としてある。
右に適用して左には適用しない、それは直ぐに、何かの攻撃性を産み始めるのだ。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
そこにあった物は、今はもうない。
それでも、”それ”は評価されたのか、されなかったのか。そもそもされる事を求めたのか?少し考える話。
「ジルベスターの星から」と言う、そんな漫画作品がある…かなり古い作品だ。漫画家の竹宮恵子氏によるそれは、「ジル」と言う少女の霊?に憑りつかれたかの少年が、その少女に導かれる様にか「ジルベスター」と言うテラフォーミング中の惑星への赴任を目指す事になる、そんな話。個人的には古本屋で見かけて購入し、一時期かなり読んでいた作品、ではある。ただ自分は面白いとは思ったが、知名度は微妙かもしれない。
そう言えばこの作品、かなりイミフと言えば、そうだ。ラストも、そこにあったのは古いコンピュータでしか無かった、という話で、今考えると当時にしろ「何処が面白いの?」と問われれば、そう言えば返答に窮する、そんな作品ではある。ラストも良い結果とは言えない、言い方では、この先二人は幾人もの我が子を犠牲にする事にも成りかねない、訳だが。
それでも”それ”は記憶の中に残り続けてそして。今の状況では、分析は出来る様になった。そこに残してきた人々の固執、拘り、願い。そう言うのは無視できないのだ。例え今はもう、無意味だとしても。
「は?」と言われても無理はない。だから、当時に説明するのも難しかったのでは?とは思うし、あるいは実は、もっと深刻な事情を抱えていた、かもしれない。描いていた竹宮氏にしろ、何かのメッセージを込めた、感じは実はしない。単に衝動的な作画だったかもしれない。読めばわかるが、何か心には、残る。ただ明確な主張そう言うのは、見えない。元ネタは何処からだった?そして、願ったのは何だったか…今になると、不意に思う。当時はまだ、昭和天皇は存命なのだ。今よりも神聖、”それ”は強かった。
なんにせよ、作家の主観それでの良品、というのは説明し難い物を抱える為に、否定される事はまあある。それでも、この作品を知っている人なら?結構な名作として認知されていても良いのでは。しかし、再評価とかアニメ化とか、平成に入っても、そう言うのは無い。
再び思うが、「何処が良いの?」と言われると、少し説明し難い。
考えてみると、平成期の作品で”こういう物”は見なくなった、気はした。
見なくなったのではなく、実は「否定されていた」のかも。「解りにくい」シンプルな視点による。
…そうなると、その期間、実に40年以上、だろうか?
良い意味でも悪い意味でも不意に、「ヒットした」と言う事の功罪、それを感じたりはした。少年誌が漫画の中心に成り、少女漫画がある意味で斜陽を迎え始める、そんな時にある一つの名作ではある訳だが。この「説明できない」感覚を説明出来ない限りは、当時にしろ前に出なかったろう。そして男性側の威圧、そう言うのに負けて押し黙るしかない訳だ。そしてこの種の方向性は、どんどんと否定されていく事には成った…という事か。「面白い」のに、否定され評価を貶められる、そう言う屈辱に耐える事になった人々、それは想像上に多かった、のだろうか。
そしてその累積が今を創ったとしたら、些細なモノでも無視できない?そう言うのは、もしかしたらある。自分は、今もまだ残る壁の前だ、そんなほぼ無意味かもしれないモノに対しての憤慨、「自分は関係ない」の憤りの先に、少し因果の様な物を。
鳥山明氏は神だったのか、それとも。