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あげちうのブロマガ

馬鹿と言う病を治す術は

不意に「漫画は何の為に描くのか?」そんな問いと共にはある。

大衆は神である、その思想的にも、”神”はここに、何を求めているのか、或いは生贄か。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

その時のその視線の、その裏側にあるモノは解らない。

 

ともかく良く聞く「不幸」その一つに、「アーティスト同士の結婚は上手く行かない」と言う話がある。ただ、もちろんそれは絶対じゃないしかし。上手く行かなくなった、その場合の衝撃が妙に大きい、問題?はそこにはある。

そこには、「何の為に?」その問いはある。そして、その結果として”それ”が到達し得ない、そう言う事にも成る。その時、何を考えるべきか?そこはちょっとプライバシーではあるが今、少し大きな話題には成って。

簡単に言えば、「二人が共に”神”を目指した時、どっちが”神”になるべきか?」それは一人にしか与えられない椅子だ、そこに座る事を二人が目指す時、その先には或いは、夫婦同士での戦争が始まる事には成る。

そしてもちろん、”その”状態とは両者にしろ望んでいないのだ。なのに、その結末が回避し得ない。

両者が親密であるほど、この衝突はどうも、不可避になっていく。「同じ事を考えている」からだ、だからこそ二人は惹かれあって…しかし。この状態に陥る様を馬鹿と言うべきか、或いは。ともかく今は何故か、その言葉しか出てこない、そんな感覚には成った。

「解った、私はあなたの奴隷に成ろう。だから、貴方は私の奴隷であるべきだ」

不意に浮かんだ”それ”は何かの解法、それに成るのだろうか。

夫はその創作において評価を、妻のそれに依存する。妻もまた、自身のそれにおいて評価を、夫のそれに依存する。第三者的には、夫に依頼した作品の作者?は厳密には彼の妻であり、逆も真なりになる。自身の願いの一部を捨てる事には成るが、その後の苦痛を避けるのなら、愛すべき存在の意向を満たさんとする…それは、妥当な選択ではあるまいか。

一夫多妻状態であろうと、”これ”は変わらないのかもしれない。良くも悪くも男女の差があってこそか、その打開に一つの光明は見える、のかも。ただもちろん、「神に成る」それは、諦める事には成る訳だが。

今ふいに、馬鹿と言う言葉が、重い。

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