立場からくる感覚の是非、ではある。
逃げられる人と、逃げられない人の間には、重い溝は有る。
表面的な言い方で、「学生らにはまだ、ディレクターの資格は無い」とは言える、何故なら?多くの彼らは何処にでも行けるから、だ。その場が嫌なら他の場所に出て行けばいい、彼らの未来はまだ、多くの可能性に満ちているのだ、誰が好き好んでこんな、何もかも足りない環境に居たいだろうか?それが生まれ故郷だとしても。むしろだからこそ、嫌だ。
”この”感覚で創る創作は、同意もありつつ、最終的には「駄目」だ。
だから今、或いは文化的な主役は、40代から50代、「もう、逃げられない」そこにしかないのかもしれない。
”多くの人”は、その産まれた場所、ともかく今いる場所から逃げる、それは難しい。その上で?その場をどうにかせねばならない…そんな環境の中に居る。その、象徴的なのが「朝鮮」だったのかもしれない、そしてしかし、その場の多くの人々が、「こんな場所から逃げたい」実はそう考えるほどに、その場の環境は切ないモノだった、というのが現実だろうか。日本でも、もちろん歌さえある、「おら東京さいくだ」は、この時、この感覚にか合致は有る。
”それ”を諦めて、その場を何とか発展させねばならない…今、ディレクターに要求されるのは、”それ”へのスキルやその他、ではあり。それが象徴するのが、「アルカディア」それでのゲームデザイン、には成る。最近、新たなる絶望には晒される。
実際のRAMは、512byte+64byteくらいしかない。使える物はこれが”全て”だ。
手元に100円しかないのに、メニューの最低価格は500円、そんな絶望ではある。
ここは諦めて、カイワレ大根とカップ麺で本日の夕飯にせざるを得ない、そんな状況。
この現実をどうにかせねばならない、訳だ、今は特に。
自分の理解の中では、「人力発電機は無いのか?」は、一応は言う。そして無いなら早期の導入を願いたい、と行政には言いたい、が。その時?行政が応じられるか?が、「アルカディアへのゲームの要求」ではある、今だと、どんなゲームだったらその要求に応じられようか。ともかく?動いて、「面白い」と思う、一般論で、そういうネタが無い?と、その環境は事態の改善を目指せない、訳だが。
「グラディウスは無いんですか?」
出来るんだろうか?それは今も、ちょっと未確認だ。
ともかく凄い無理がある、のは間違いない。”これ”はファミコンと同時期に売っていたゲームだ。
ここからグラディウスへ、道は本当にあるのだろうか。不意に不安には成る。
「アルカディアで成果の出るゲームをデザインする」その必要性は、結構語れる、しかし。その場が悪夢でしかない、そういう人もまあ、かなりいる訳だ、家出して都会に出てるとかも、深刻。「統一教会」も、その最深部はそこに意識があるのかもしれない、あの環境には二度と戻りたくない。”そこ”を自力で改善しろ、自分の生まれ故郷だろう?昭和天皇の要求に、当時の文鮮明氏以下も、納得できなかった、というのは重くある、だから彼らは今も、アルカディアでのゲームデザインは出来ない、そんな状況なのかもしれない。
朝鮮を見捨てて逃げた人々に、朝鮮を救えという要求、それはまあ、確かに無理だ。
一説では、韓国でも「統一教会」それは、そんなに関心のあるカルトではないらしい?
実際は放浪の民なのかもしれない、彼らは。