そこにある邪悪は、表裏を持っていて…少し、面倒な境目ではある。
「私に逆らわない方が良い、酷い時には殺すかもしれない」それは、誰の声かだ。
経緯の問題かもしれない。ともかく昭和の頃には密かにか「昭和天皇」それを、魔王と言うべきか、”それ”が居た。天皇陛下、とは少し違う立場、もっと上位では有りつつ最下層、そんな奇妙と言っていい絶対者が、最後のにらみを利かせて居る結果で、それを安定というべきか、昭和は、何かの高揚の中にはあった。あらゆる事に疑問を持つ必要は無かった、要求される事をすれば、何かの安定は得られていた。
ともかく”そこ”には重い断言がある。「戦争はやらない」太平洋戦争の様な愚行は二度としない、それは絶対と化し、昭和の「倫理」その基幹となった、それは少なくとも日本では今も続くそれではある…が。ただ、この結果で「民主主義」それには重い制限が掛かっていた、というのも現実かもしれない。
”それ”は、その魔王の許容する範囲での自由でしかない。
最善の選択は、その魔王を前にしては多く、そうでないのだ。
その結果、文明その他が後退するにしろ、それが最善ではある。
その時、昭和天皇とは、戦前と同じく、いや戦後はもっと意味的には広義に「神」としてあった、訳だが。
平成で、その神が居なくなって。
「なんでこんな事する必要があるの?」それへ、返答が無くなって。
特に「人を殺して何故悪いの?」代表的な”そこ”へ集中していき。
物語の中で悪人を殺す様に、「自分に都合の悪い存在」を殺しても、罪に問われない場合が、幾例か出た…感じ。
この幾例かの「殺せなかった無法」が、その後、平成を支配するようになって。
”それ”は自然にか、言質が歪んでいく事にはなる、その象徴的なのが、先の言葉。
「私に逆らわない方が良い、酷い時には殺すかもしれないし、私はその時罪にも問われないだろう」
”それ”は何かの、権威、かつて昭和天皇に「認められた」人々にとって、逆らい難い声としてあった、様だ。
平成は良くも悪くも、”この”声に逆らえないまま、その文化を形成していった、が。
昭和の頃と違って、やっぱり何かの欠落、それはどうしても感じる物でしかなかった。
実際、”それ”は神を名乗りつつも、全くの異質な歪みでしかない。昭和で否定された邪悪な独裁者でしか。
でも、「神とは何?」に対して、今もってやっぱり、多くは明言し難いまま、でもある。
しかし、現状形成した「大賀さん」も、実際には返答は同じ、だ。
「電影旅団オーガ」と言う多人数対戦ゲームを基軸にした、”そこで戦争をする”為の機構。
”そこ”での結果は現実に戦争をしたのと同一である、結果、本当に戦争をせずに決着は出る。
その決定には逆らわない方が良い、最終的には死ぬ事になる。
意味は全く違う、時速200kmくらいの速度で岩にぶつかれば死ぬ、そういう話だ、とは定義してるが。
「大賀さん」と呼ぶ、まるで”誰か”の様に、今までの感覚に合致しやすく設定したそれは、逆に物理的な認識を阻害する。
その時、その返ってくる返答とは、今の邪悪な独裁者その物、ではあって。
自分の中では、「どっちが正しいか?」そういう状態では、ある。
人間を神にするか、対戦ゲーム機を、”機械を”神にするか、その選択。
昭和の頃は、機械に支配されたディストピア、それは良く漫画のネタになっていた。
”その”頃は多く、登場人物には「現実の誰か」が設定されていた、のかもしれない。
現実と空想が、実際には大分混ざっていたのだ、昭和の頃は。
平成はその先で、自分の把握では「空想」虚構、そっちへ進んでしまった。
漫画のディストピアは、果たして単に、「出来が悪いだけ」だった、ろうか。
そして「大賀さん」その出来とは。