単純に言えば、「必要なモノ」が売れる訳で。
その時?創作としての高いクオリティ”それ”が「必要では無い」に成る場合もある。
どういう状況?と言うと、「劣等は要らない」と、”それ”が語っている場合、だ。”この”クオリティは素晴らしい、これを具現化させる為には内部的な「不満分子」そう言うのは全て排除し、状況を全て期待する様に統制せねばならない。これこそが至高であり、人々はそれを目指すべきだし求めるべきだ、これに不満を持つ、つまりそんな劣等は要らない。そしてこれを創ったのは私だ。
「独裁創作」それはまあ、結論で言えば全てが自身のプライドと言うか、自己顕示欲の塊の様な物だ、とも言える。その時?それが結論ではそう言う事を主張し始める、それはどんなに注意してても、起こる。この調整はまあ、人間にはほぼ不可能だろう、そんな感じもする。
なので、独裁創作は売れない、自分(お客)へ「お前は不要だ」と言うモノを、わざわざ買う奴など居ないからだ。
という理解の先では、高いクオリティ、それは決して「良いモノ」とは言えない。
その先で、「では売れる物とは?」と言う疑問の先に、「創作の必要性とは?」と言う話があり。結局、”創作”それは、社会体制への提言というか、理想の提示と具現の可能性を示す、と言うのがまあ、最も「必要とされる」物、という事には成る訳だが。イメージとしては。
「”これ”は、レスキュー隊に対して期待されるモノを描いています。隊員達は日々、有事の際の如何なる問題にも対応出来る様、訓練を続けています。この人々は職務に対して優秀であり、またそうで無ければ成りません、この場に”ヘタ”など居てはいけないんです」
こういう”意味”をその作品中に描かんとするなら?「下手」それは、単純に排除せねばならない…事には成る。また評価的にも、”それ”が入っている事に対してどうしても、「貴方、なんで居るの?」その重い否定は、起こる。この場合の「否定」は、排斥では無い、期待される性能を維持する為の、当然の処置だ。
が、こんな事を或いはギャグマンガに対して考えて創ってる奴が、果たしてどの程度居るか?と言う現実も、重い。実際には、プロデューサーかディレクター、その我儘にしか見えないのだ。そして、実際にそうかもしれない。”それ”が冒頭の「理想」を強要していても、それは判断出来るのだろうか?
…とは言え、”こういう混沌”を残したままでは売れない、そう言うのも、現実。
「売れるプロデューサー」は、良くも悪くもこの辺に、明確な”何か”は持っている、筈ではある…説明できるか否かは別問題として。
「現実」は何処か、今も自分は探している状況ではある。大衆は神である、”良い物”そのお眼鏡にかなうモノしか売れない。それを売っていかないと、経済の回復も救済も無い。現状に問題しかないのはだから、だ。
しかし、だったら何故?だ。