あげちうのブロマガ

否定を否定して事態が否定する

改めて、そこから先は「信仰の問題」ではある。

そしてそれだけに、その先に徒労感があるのもまた、現実だったりもする。

 

「結果」と言うのを何処で見るか?で、理解は大分変わってくる、訳だが。ともかく”ここ”で、一般的に求める「結果」は発生してない。自分の視点ではほぼ陰謀論的な話を始めてしまうが、一億円くらい稼いだから新しいゲーム創ります、スタッフ募集、とか言う話は始まらない。ネタを思いつきました、良いと思うんですよね、そしてほぼそれは、そのまま放置され事態は先に進む。「先に進んでねーじゃねーか」それはそれとして、一応というか、ネタはまた続いたりはする訳だけども。

「”こんな事”が出来るのは、私が無限の利益性を構築したからに他ならない」

大分、苦労してるみたいですね。

微妙に深刻さを漂わせて、事態は認識とは違う局面を創っていく、様な気はする。

 

笑い話にしている事もまた、逆に深刻さの表裏だったりはする訳だが・・・だいたいこの辺で、実際には「要求された程度」は終わっている、”感覚”もある。価値の感覚、多くの人々の「面白い」が一人一票で集う時、それが要求される額に達していればそれでいい、それ以上はむしろマイナス要因でさえある、やりすぎ。しかし今の自分の状況では自分は「何の対価も得ていない」のだ?表面的には。実際には不足感あるままに止める、というのが「儲ける」という理解では正解なのかもしれない。しかし状況は、どんどん悪化していく感じもあって。

思い出される、昔東京で、「私は神だ、神に従え!」と街頭演説してた人がいて、その人がその後、立ち食いそば屋で蕎麦の量を愚痴っていた、という話。たしかもう亡くなってるらしいが、意識としては、それと大差ない状態?と思うと、なんともやるせないというか、微妙な気分には成る。

ともかくネタが続く、というのは、継続性という点で貴重なのだけども。無人島で生き延びる、様な事が出来なければ、「創作とは生活必需品です」それは真実とは言えない訳で、そう言う意味では何とか継続を続けている、というのはそう言う一つの実例とは言える訳だが。古いシステムの継続、現場は楽かもしれないが”ここ”は日々夢魔と討論を続けねばならない訳で、牢陽帝、そう自虐的に言える状況でもない感じはある。信仰の問題ではある、意識を変えた方が良いそう言うのは、何の返答にも成ってない。

喫茶店とファミレスの違いって何処?とか、それに対して何か言うべきだろうか。

やればやるほど悪くなっていく?様な感覚の、求められる答えは言えない感じは重い。

正しい筈なのに悪くなっていくのはおかしい。

そこで議論は止まっている。

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