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あげちうのブロマガ

シンプルな命令の先にある意識

「売れればいい」が、奇妙に難しい時代を既に30年は過ごしちゃった状況は、ある。

大阪万博での「膨らむ予算」その膨らんだ額は、果たして何処に使われているのか。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

そこにもう居ない人は、何を残していったのか。

 

「ゴジラ-1.0」が、アメリカでも公開され大ヒット、という報道。不思議な気分がするくらいに、このコンテンツがヒット、というのはマリオよりもはるかに意味がありそうみたいな、そんな感覚はある。視点では「日本のプレッシャーはアメリカも感じていた?」と言う、そこはあるかもしれない。ある意味で、今までなら「世界的に避けていた話題」に踏み込んだ、そう言う話だった可能性はちょっと、ある。

人間である限り、如何なる状況、立場であっても、人間ではある。

アメリカでも、ガンプラは大ヒットしていて、それは実際には中国でも、だ。意図はともかく「戦争はしたくない」それは、どの世界でも民衆その願い、ではある。もちろん?「自身の生活が脅かされる」それを超えるモノではないが。相反する感覚が、やがて歴史的な後悔へと昇華していく様は、せめて漫画の中の話であれ、それは常々思う話で、戦争モノの需要はそこにこそある、しかし。

これもまあ、単なる主観ではある。

今、”戦っている”相手は何か?は、不意に混沌には成る。ジャニー喜多川氏の話に、不意に考える話。「故人になら、如何なるデマも秘密の暴露もして良いのか?」しかし、それを歴史小説その他はさんざんやっている、のである。それが許される時、昭和天皇であろうと牛の前にある牧草でしかない。「死を恐れる」と言う点でも、これは肯定されてしまうのかもしれないが、しかし限度はあるのではないか。報道の規約的にはつまり「”生者の”プライバシーは、犯罪の告発でない限りは、如何なる調査も報道も本人の同意ないなら不許可」ではある。逆に言えば故人の家系にとって不利益に成るなら不許可になる訳だが。それも逆に、故人の家系が同意してたら問題には成らない、訳だが。だから、ジャニー喜多川氏の”家族”が同意してれば、報道で如何なるデマを流そうと、それは問題に成らない?

そうだろうか。

何処まで”家族”なのか?ジャニー喜多川氏育てた多くのタレントは皆、幾らかの時間を彼と共に過ごしている。良くも悪くも彼と家族に成れないと?ジャニーズでの厚遇は無かった、という視点も無い事も無い、その時。少なからずの損害を元ジャニーズタレントは受けているのでは有るまいか?報道で、ジャニー喜多川氏の家族に損害を与える、というのは許されないのでは有るまいか。内輪の問題、としても。

ともかく報道的に、過失はあったのでは無かろうか?

ルールの穴を突いた、不意にそんな気分には、成る。或いは?ルールの穴を探した、意図的に行われた自爆テロ、だった可能性は結構あるのではなかろうか。法的には問題ない筈だ?しかし、逆にそれは、「報道は過失を犯した」と言う結果に成ってしまった?それはふいに、少し想った。

今、「大賀さん」その隙を何とか突破しないと、戦争はウクライナの敗北で終わる。

何か誰か、重大な危機に直面している?

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