感覚では、理解出来る事ではある。
その試合は、大事な試合だった、勝てれば甲子園、メンバーにはもう、次は無い。しかし、その試合には負けてしまう。負けたチームには、勝ったチームよりも打点を記録した選手も、ファインプレーで沸かせた人も居た。彼らはもちろん今年が最後だった。
誰かが言った。
「凄い活躍でしたね」
「だから何?」
この温度差は、有り触れているのだけど。
このもっと重い話が、「硫黄島の決戦」での生き残った人々、そこに有る何か、ではあって。
彼らを前に「あなた方は生き残ったんです勝者なんです!」それは、逆鱗さえ触れそうな、そんな物言いではある。
そこに有るのは、ある意味では善意なのだ、しかし。その温度差は考慮してないと言うか、或いは思想、その問題。
「スペースインベーダー」と言う、ゲームセンターを創ったゲーム、それを創った人々の理解?表現、そこには、その視点でちょっと、欠損は有ったのかもしれない。
表現としては、10面とかをクリアした後に「あなたは生き残った」そう表示してゲームオーバー、と言うのがオーダーに対して?は適当…だろうか。でも、「それは違う」そこには重い反論がある。
”それ”は、TAITOの、そしてSEGAの衰退にも、繋がっていく話、だろうか。
「何の意味も無かった」と言うのが、実際にはスペースインベーダーに求められた理解、表現?作者らの同意、ではある。敗北、その虚無。”それ”が戦争と言うモノだ。二度としない、その上では、「意味が無かった」戦友達の死も、自身の奮闘も、負けた側には何もかも無い。”そこ”に、同意が必要だった。
同意し得る表現では、無い。
言葉は心を超えない、と歌う歌もある。
家族にして見たら、生き残ったそれは、何よりの吉報でもあって。
そして、戦争を知らない世代にしろ、”そこ”に「無意味でした」を置くのは躊躇い?は、ある。
今のそれは、躊躇いでは無く、「私は正しい」それではあるのだけど。
そこに有る対立を前に、ゲーム業界はまだ、何かの面倒を抱え込んでいるのかもしれない。
現実が悪いんだ。
それは何かの行き詰まりの先に有る、そんな言葉だろうか。
それとも、思想的な、その現実との異相、それへの憤慨だろうか。
今更SEGAに、「自分らはガンプラのパッケージみたいなもんですから」とか言われても、何だか憤慨しかない。
或いは?TAITOのコンセプトをより美しく?装飾して”被せ”る、と言うスタンスで存在していたとして…そのTAITOが今の状態では、我々も輝けない、とか言うそれは、正しいか。
TAITOは、「スペースインベーダー」は、今も或いは、現実?に対して異を唱えている、感覚は不意にある。生き残った、それは勝者だ!それは間違いじゃない。それが否定される、それはおかしい。
”それ”が結局は現実否定に陥るのは、実際には現実じゃないから、なのでは。
昭和天皇は正しかった。
それを否定して、今も?
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