ともかく「創作には価値がある」と言うには、逆にお金に成らなくても続けられる必要がある。
社会が存在しなくても、人間は食料を食べ続けねば死ぬ。それと同じか、或いは?ではある。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力
「なんで?楽しいから」その場にそれ以上の返答は無意味だ
そう言う点では、改めて何かの実感はする現状、ではある。不意に発生する?衝動、それを具現化し得るモノ、或いは自身の技術。”その結果として”そこに出来た物、ともかくその結果、衝動は消失し得た。出来上がった物が必要なのは”この”場合は自分だけで良い、邪、というべきかの衝動を消失させる事が出来れば?そこに有るのはある意味で「たのしい」それでは、ある。
誇大妄想か、自意識過剰かの発言としては「自分が世の中で一番上手い」のだ、”神様”だから。世に出ている”全て”の創作は自分を満足させる事は出来ない、自分に出来ないのなら?それは存在しないとさえ言える、が。ともかく今のところ、自分の暴走に近いモノは自分で問題なく昇華し得ている現実はある。とある虚無の悟りを得た数分くらいの間に、神様はその辺のおっさんに堕ちていく訳だが。
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それでもこのマークが既に死語に近いという事実には、現状への問題を残すのだった。
ともかく上記の発言は、果たして如何なる権威者であろうと自意識過剰か現実を見てない証の様な物、ではある訳だが。結論的には、それは「個性の問題」である、自分にベストマッチする創作、を創る事は自分にしか出来ない、自分の事は自分にしか解らないから、だ。そして?その時逆に言えば、その創作は他の人にとっては全くの無関係か、そもそも唾棄すべき奇行、異常、変態行為それ以外では、無い。多くの創作者は、だろうか、”それ”が大金で買って貰えない事に異様とも言える憤りを持つ訳だが。自分の匂い立つ”それ”を抱えて銀行を訪れたら、次に行く場所は多分拘置所か病院である。
という把握だけでも、何かの限界はここには、ある。
換金を考える限り、”それ”を必要とするのは他者である、自分では、無い。”それ”を創るという時?或いは自身の立場を危うくする場合さえ、ある。果たしてAI絵が、普通のイラストと同じように評価されるべきか?だ。そこに何を求めているのか。ともかくその時、通常の技術者の多くを切り捨てる先に有るのは、一人で暮らす山の中、かもしれない。そこに現実は無い、窮乏は創作の意味さえ失っていく事には。
とはいえ、人間はもちろん、他人の快楽よりは自身のそれではあるのだ。ともかく「大衆は神である」その思想の神、絶対者は。個人創作を容易く換金しない…それはまあ、間違いない。換金しようとするなら、他者の、或いは自分には唾棄すべき”それ”であろうと応じる、そう言う境目はある。それは道理と共にある話。
…問題は”これ”に対して戦う姿勢を見せる創作者が、想像以上に多い、という事だ、ろうか?
今迄の状況を見ても、独裁創作の換金を信じて疑わない人の方が多い、自分さえ含んで、だ。良いモノを創れば認められる!ならまだ良い。私の創作は素晴らしいのに換金されないのは世の中が歪んでいるから、というヒトラーのしっぽに陥る人々の方がはるかに多い、のかもしれない。相手が買わないのは?”それ”が必要じゃないから、だ。相手に、ともかく自分以外の誰かに必要、そう言うモノじゃないと換金性はほぼ、無い。
「そんな世の中間違っているので変えて見せる!」
民主主義かは、或いはこの帰結に陥って。そして平成の不景気を経て今も、或いは戦争を続けている。
一応、逸話ではヒットラーがああなっていく境目には、自分の絵を買って貰えなかった、という社会の、お金持ちへの憤りが有った、という話。そしてドイツ国民の多くも、”それ”を熱狂と共に肯定して一つの狂気は形成されて行った。ユダヤ教徒の「査定」が、第三者的には理不尽な主観に見えた、それは現実だろうか。ともかくこの時にしろ、「独裁創作は結論的に、他者には必要が無い」そんな理解は、無い。考えると不思議でさえある、”それ”を否定する主観によって、世界は今も、何かの歪な支配に晒されている、のだ。
薄暗い真実よりも輝かしい虚構の方が良い、それもまた、創作の需要だろうか。