イメージと言うか、ベクトルは?合致がある。
ともかくそこに有るのは、「仕事をした」そんな実感だろうか。
それは個人的な感覚かもしれない、自分はただ或いは、技術だけ持ち寄って関わっただけ、だ。それがその結果に成る、そう言う?そこに有る、何か。
「見たいモノ」それは、結局は「待たねばならない」のかもしれない、自力で創る事は出来ない、自分以外の誰かが創らなければ?”それ”はそこにない訳で。
そう言う感覚がまあ、或いは個人的な、そう言う物かも。
ライブ会場での熱狂、それも実際には、そう言う物、なのだろうか。
ステージで歌っている人々が、必ずしも”それ”を創った訳じゃないのだ、実際は。彼らもまた、「仕事として」そこに立ち、要求された事をしてる。視聴者だろうか、ともかく”そこ”に、幻を視ては居る。そしてそこに関わる全てもまた、何かの「快楽」それを求め、実は単なる技術者として関わっているに過ぎないとしても、そこに居る事に、何かの充実が有って。
なら、それは誰が創ったのか?
「誰かが創った」のだ、じゃ無ければそれは存在しない。その、何処かに居る”誰か”の、その理想に対して何故か、人々も、関わった人さえ、なけなしのそれを、投げ入れていく訳で。
「創る事は出来ない」のだ、それは、待たねばならない、或いは?何かの対価の後のそれとして。
或いは誰もかれも、”それを目指している”のだ。それに憧れて、”それ”を創る為に或いは無理に挑んで、例えば達成したにしろ?考えるに、”それ”はそれじゃないし、もちろん評価もそこに居たらない。その失意の後にふと、それは、そこに有る。
居ない、或いは”そんな誰か”の意向?だ。
幻を追っているのだ。そしてその先に或いは、違う面倒が始まる。戦いがあり、或いは勝利しても?それはそれには届かない。
「そう言う物だ」と言う理解は、何かの諦めの様なモノ、だろうか。
今の様な状態でも、自分は微妙に「勝ち組」そんな感覚の中には居る。カウンタ数値は無く、評価も無く、何もかも制限された、社会の中で、居るのか居ないのか解らない様な、そんな状況でも、だ。それでも、それはそこにあって。
目的、だろうか、それは達成している。
或いは自身の投入した結果として、そんな幻想は抱ける程度には。
ライブ会場、と言うモノに、何かの誤認はあるのかもしれない。
”それを創った存在は居ない”のだ、その誰かの意向を満たさんとそこに全ては集う。
或いはそれが闇を払い、未来を見せてくれる。そこに居る全てを、勝者に変えて。
それが一夜限りの麻薬だとしても。
そう言う物、だろうか。
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