先日亡くなった坂本龍一氏は、結構な暴君ではあった、らしい。
そう言うのが肯定されていた時代は、或いは今もまだ、継続中ではある。
本日のダイス
白:4,3:7
黒:6,1:7
同値 振り直し
白:6,2:8
黒:6,3:9
黒9 6362
”神”としても、ちょっと逡巡する物?は、有るのかもしれない。
「大賀さん」での決着は、本当に決着に成っているのだろうか。
理屈の上では今は、「大賀さん」それで跳ね返り、最終的には自分を自分で殴っている、そんな絵には成る、筈ではある。50%以上の独断は「無理」だ、賽の目を制御は出来ないしかし、独裁性はそれに我慢ならなくなって、”壁”を殴る際に自身を、自身の支持者を殴る、事には成る。以前の壁は、”それ”で結構怯んでしまった、それによって無理が通って道理が引っ込んだ訳だが。例えば野球の試合で負けた憤りは今、何処へ向かうのだろう。
思想として人類は総じて、「大賀さん」と言う暴君の意志を前に、屈するべきではあるのだが。
「暴君が居る」いや、有る、というその自由を阻害する制約を前に、何かのストレスは膨らんでいく?
以前の様に、”それ”がAVとして発露していた頃、抑止はされていたのか或いは。ともかくその時、大分歪みが発生はしている。具体的には「(思いつかなくて)殴る、(先に言われて)蹴る」と言うそんな様が、現場を過剰に委縮させていた、訳だが。被害者は多く女性で、そしてそこではもちろんか、個人ではなく「男性」その物への不信、と言う物になって、それは歪んだ面倒の起点にも成っていく訳だが。
自分で決定する、という事が結論で出来なくなってしまった、のは。自己責任を問えるのだろうか?
そう言う感覚を前に、目先の解決を選択しようとする是非を、少し思案中ではある。
「大賀さん」の決定は、万人に対して平等、な筈ではあり、人によって態度を変える事はない。逆に言えば、”それ”は自分が理解する様に?最終的には万人に共有する感覚を提供はし得る、訳だ。今までの被害者の女性らも?その時、それは理解されていく、のだろうか。
要するに、「何もしない方が良い」そういうオチの是非を、少し思案中ではある。