最終的には、「自分と同じパワーを相手に、絶対に勝つ方法は無い」訳だが。
それを前に衝動は、両者で剣呑に高まったり、するのだろうか。
”それ”は、最終的には「戦争」、仮想現実のそれとして発露する、事には成っている。しかし”そこ”で敗北した側は、そこで納得するか?が、面倒な話としては相変わらず残る。”それ”は、現状の想定では確かに、それは本当の戦争では、無い。核兵器もないし、人も死なない。特攻さえ肯定され、残酷さ?を前に引き下がる、様なそう言う話も、”概念としては”有っても、実際には無い。ともかく一番の相違点は「核兵器は使用出来ない」それは結論で両者を滅ぼすからだ。その時「”ここ”を使用する理由」も失われるので、この場としては」”それ”は否定される。しかし、それは戦争か?には、昭和からのそれには重い不満?か何かはある。
「ガンプラバトル」では確かに、最後はサイコロ運だし、ガンプラのパワーも、或いは査定委員会の胸先三寸、そういう懸念は”少し”残る。
それを問題ない、というのはあくまでも、「大衆は神である」この場は”そこ”に接続している、という自身の言葉を信じる人々だけ、かもしれない。大賀さん、それを見ても、意味という話は、少し徒労感はある。
(0±0)が、「神」です、と言われても、何のことやら、だろうか。ともかくこれより下は無い。この辺は「黄昏の狩人」の中に幾つか説明はあるのだが、「ある」という状態を確定させる為にはプラスとマイナスで0になっている必要があり、その時、その絶対である”0”でさえもまた、「相対性の釣り合う物」を求める、”それ”が、±0という絵であって。この結果、ここを足場に宇宙は存在する事になり、それはつまり、「平等」それは、宇宙の定理だ、という事にはなるのだが。
ともかくだから、目の前で、あと1枚、あと一歩で四暗刻が出来たのに!という理不尽の道理が見える訳では、ない。
不意に、「世界支配をもくろむ邪悪が居る」という理解の時、「利益性を期待しない個人のメディア」ブログとか、”それ”の集合というかが視点としてはそれに見える…という現実がある事に、少し思い至ったりはする。”それ”は自由を求め、権力に反意を見せ、或いは具体的なプランさえ提示する。愚かな人々は”それ”に魅力を感じ、集まっていき、そこに災いは発生する、お金の問題ではない、世界を護らねばならない時、それは邪悪の温床である!
それもまた、相対性の一つの現実、だろうか。何かの重いプラスがある時、その向こうには等価なマイナスが発生していて、それは結局、戦いを始めるのかもしれない。
その行く先は、何処か。