解ったからと言って、それは当時にしろ意味のある話だった、ろうか。
税金からのピンハネやら賄賂やら、高級官僚にしろそう言う話を抱えていたら、罪人なのだ。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力
「これおススメですよぉ?うちの会社の商品なんですー」カウンタ数値に+1の補正ではある。
「私の創ったゲームが何故売れないんだ?!」罪人だから、ではある。
最近もまた、「国土交通省の」事故調査委員会に近い所が、”飯塚幸三氏の被害者に”理不尽な侮蔑をした、という事で問題に成った。そこは飯塚幸三氏に対して「かなり親しい関係だった」と言う話で、その「信者」は国の高級官僚の中に広く薄く根を張っていた…そう言う事だった、ろうか。産業技術総合研究所の院長というポジションからの人脈的な形成は、やっぱり「信仰」のレベルに成っていた、訳で。その影響力を行使する事で、その東京都庁舎へのプロジェクションマッピングに49億円?!という、そう言う事が可能に成っていた、気はする。
”それ”は、単純に犯罪とか横領とか、そう言う話ではある。
それでも「通ってしまう」と言う、そこに経緯の混沌、「当たり前」の歪それがあった、感じ。
国から公共事業として発注され、いったん広告代理店へプールされ。そこから、国の管轄を外れて使用されるそれは、果たしてどういう使われ方をしていたのか?だ。「広告費」と言う混沌の中では、自腹買い、言えば”テンバイヤーへの手数料”さえそれではある。深刻ではある、「そう言うお金が無ければ娯楽産業は維持出来なかった」訳で。誰の固執だろう?は思う、とにかく独裁創作に拘る時、その先には想像以上の貧困それは待っている。
一億円の売り上げを出す創作を目指すよりも、東京都庁舎へのプロジェクションマッピングで49億円を出させる方が”評価”も利益も上ではある訳だ。そして、”それ”を罰する事が出来なくなる時、過失という感覚は消えていった、という事だろうか。
ゼビウスの頃から?
最近不意に自覚した部分は、ある。創作での利益性、”それ”は何によって?ではある。
まず、潔白である事、犯罪性を残していない事、
仕事に対して応じる姿勢がある事、
自分の主観よりも結果の評価を優先する事、
その上で、「仕事」として作れる事。
作者はまず、”これ”を満たしている事が前提では、ある。そしてその時?飯塚幸三氏のレベルはほぼ全てが、その「横領」やらの”過失”それを、当時にしろ抱えていたのでは有るまいか。なら、そこに利益は無理だ。王の権威、昭和天皇のオーダーに逆らっていたか否かは問題に成らない、「罪人ですか?ではダメです」話はそれだけだった、訳で。
単に当人に、”その”自覚が無かっただけ、な訳だ。或いは人を二人も轢き殺し過失を問われた、今も。
自分が想像する、飯塚幸三氏のしていた事、というのは。業界にとっては”神”にも等しい所業ではあろうか。内容も義賊と言えばそうだ、国から上手い事、多額の予算をちょろまかして広告代理店にストック、そこから任意の作品へと、製作費を支払う。自腹買いでの成果を出してしまえば、それが面白いか否かは関係ない。テレビアニメなどにしろ、その後のDVD化とかでの利益なんてほぼ当てに成らないのだ、単にスポンサーが気に入るか否かではある、それも役職の一存に過ぎない。ともかく業界の人々にしろ知る人ぞ知る、な状態の中で、「それは犯罪である」事を、その実感を失って行った、それはまああって。
断言はしていい、しかし。30年は遅い話ではある、それも思う所ではある。
「ゼビウスは売れなかった」と言う、その混沌の中にあるシンプルな答えは、昭和天皇にしろ指摘できなかった、そう言う事、だろうか。
それは単に、税金の横領です。
相手の「は?」と言う、そんな視線に対して、出来る事は少ない気はする。