常にある懸念は、「役立たず」その言葉と、それが向いたモノへの奈落ではある。
否定も同時にあるが、理解の中では今も、アイディアに関しては”人類は”総じて、無能ではある。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力
二人は何を見て、そしてそこに来たのか
個性の問題ではあって。
「あなたはこの場合、何が好き?」主観で突き詰めていく時、その「好き」と「正しい」が同調する人は、限られてくる。「ヒット作」”今まで”のそれは、そう言う感覚の中で、”その”上位の人々の創案によって産まれてくる、訳だがしかし。結局?生まれ持った個性によるので…この領域では、努力はほぼ無意味だったりする訳だ。
なのに、アイディアがその「正しい」に近い個性じゃないと、利益は出ないし?つまり経済も良く成らない。
”これ”を突き詰めていくと?結局は「一人」に集約してしまう、現実が実はある。これが「王の権威」と言う特殊な存在ではあり、創作への需要がより高度に、より重くなった現代では、不意に発生する階層、それがそこにはある訳だ。昭和の頃の理解は、結論で言えば間違っていた、と言ってよく。オピニオンリーダー、というそれに対してもっと意識すべきだったが。”自分”も含め、「それはおかしい」それは今も支配的な理解ではある。
ただまあ、結果論的には今も、「王の権威にしか、利益性のあるアイディアは創案できない」それは、あまり変わっていない、と言って良い。
昭和の頃の、その「アイディアを出さねば成らない人々」の間に発生した否定感は、今よりもっと深刻だった、というべきだろうか。”それ”はカルトを産み、「現実」へその否定感をぶつける様になる、訳だ。そして昭和天皇が亡くなった後に彼らは台頭し、しかし。もちろんか、その「好ましい理想」に対して現実は、良い顔をしなかった。昭和の頃に既にあった深刻な劣等感と絶望的な「格差」は、平成に入ってより深く剣呑に成っていってしまった、そんな感じではある。
理不尽だ。
マクロで見たらどっちが?は謎ではある。高校を卒業したばかりの青二才も、その業界では名の知れた人も、実際にはこの時、立場としては「平等」ではあり。その選ばれし「王の権威」が「ああ、それ良いですね」を言うアイディアを創案出来た方が勝者、である。”そこ”だけ、その立場の問題さえ無視出来るなら、そこに居るのは単に審判でしかない、のだけども。
お前は何様なんだよ?
昭和天皇だったらまだ良いのに、それは、この時常々思う話ではあるのだった。
ともかく「王の権威」この理不尽はしかし、最終的には物理的な話ではあり、これを前にしての「良いアイディア」に対する優劣は意味が無い、とは言える。もちろん結果で言えばそうも行かず、故に。今は?「大賀さん」紛争解決機構、その提示には至っている、のだけど。王の権威だって間違える時は間違えるのだ、その時?その結果は紛争解決機構での「負け」或いは想定外、として発露はする。”それ”を許容していく先に、求める「平等」と言う絵はある、理屈の上では。後は学習、理解の結果でしかない。人々は何を好み何を求めるか?利益の為には、自分の個性は殺して”それ”に同調していく姿勢は必要になる、が。クリエイターの多くは、求めているのは利益より自由?ではあるのだった。
ただ要するに、「自分の土地は狭すぎるからもっと土地を寄こせ!」大概はこの衝動に過ぎないのだが。
「リソースは限られている」と言う前提で、今は話をしなければ成らない状況だ、とは思う。スペースシャトルやコンコルドの様に夢を追った何かは、結局は経済的には破綻というオチに成っている。映画の中で見た、あの憧れと言って良いコクピットが再現されたその場は、正に夢の具現かもしれないがしかし、現実的にはそこは命をチップにした賭場の様なモノで、そこに有るのは深刻な格差の存在ではあるのだった、弱い奴は死ぬだけではある。「漫画の中だけで良いよ」それは、多くの意識が呟くそんな声ではあるのだった。
そして結果、”それ”に対して深刻な喪失と否定?が発生する時、その理不尽は巨大な現実への否定感になる、と。
衝動は何故か、そのまま利益には成らない。
当たり前と言えばそうだが、”それ”を求め車をお釈迦にするのも、人の業みたいなものだ、ろうか?
3時間待ちの人気なジェットコースター、その混雑を如何にして緩和するか?「もう一台設置しよう」それは、果たしてではある。