とあるおもちゃを、考える。
普通のピストル型のそれだが、銃口にはカメラが仕込んで有り?AR技術を用いて”それ”は、ターゲットを認識できる。
銃からは無線でのイヤホンが分離していて、使用者はそこから発射音等がリアルに聞こえるし、標的に命中した!それも解る。ターゲットの置き場は自由だ、そして用意されてるゲームの判定もかなり正確である。
これにより?深夜、或いは壁の薄い民家などでも、銃撃を臨場感たっぷりに楽しめるのである。
しかし、この動画を見た後だと、何とも切ない気分には、成る。
ちなみに前出の銃を思い付いた?のは、この動画を見たからだ、が。
この動画の銃、昭和の頃なら、ある程度のヒット?はしたのではあるまいか。標的にぶつかるとリアルに音と炸裂光がする、と言うのは中々にワクワクする何かではある。
「うるさいんですけどっ!」
その声さえ無ければ。
自分も、結構昭和を知ってる世代、ではあり。その頃の子供の玩具、と言うのがどういうモノか、ともかく昆虫採集セット、と言うのを手にした事もあり…”それ”を虫に刺してちょっとショックを受けた経験もある、訳だが。ともかく音のする銃の玩具、そう言うのは定番だったし、それに問題を感じた事もないし、面白いと、今も思うのだが。
しかし、家に残る?音のするロケット花火は、相変わらずもう、使えずにはいる。
静かな時代に成ってしまった、と言うべきか。
利便性を対価に喪失したモノがある、と言う事か。
そう言う、何かの開放感のある遊びは、ほぼゲームセンター一択に成ってしまった、と言うのはある。
家では静かにするのが鉄則、それに反する理想を掲げるなら。
それでも、”そこ”には、何かの捨てがたい正論は残っているのだろうか。