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あげちうのブロマガ

評価と結果と世代の狂気

それは主観的な物言いだ。

理解した上でも我慢はし難い。

個人的にNHK朝の連ドラ「花子とアン」あの頃のこれは、どうにも我慢出来ない。
何がどうダメだ?と言う、そこを指摘出来る訳ではないのだがともかく受け付けない、しかし。

楽しみで?見てる人々は居るのだ。

この時、その狭間に有るのは、「どっちが消える?」そう言う何か、ではある。


相変わらずか、不意に、あの「飯塚幸三」氏の事を考えたり、する。
紫綬褒章まで受賞した、高級官僚。そんな官僚は他に居るか?と言うと、聞かない。

というと、彼は、「官僚」その世界で、どれだけの権威性を持っていたのだろう?
官僚と言えば、日本を実際に運営している”現場”である。その、逆らい難い権威。

彼は今もまだ、明確には罪人では無い。
彼が事故を起こす直前だ、自分は何か奇妙な事を言い始めてる。

「一歩100円なんて、有り得るのか?」

今の、「人力発電機」それへの必要性を考えていた頃?とは言える、そう言う物が無ければ現場は困窮するモノが出てしまう。それに対して、何かの返答?として。天皇陛下辺りなら、言っても良い話だろう、しかし。何の根拠も財源も無く、ただ、一歩100円、それは、何をどうすれば具現化し得る?

その後、直ぐだ、飯塚幸三氏が酷い交通事故を起こし、二人も死なせてしまった。

”彼”の主張だったりした場合、その要求を具現化するには、「そう言う絵」にしか成らなかったのでは。
”誰か”を犠牲にするしかない。
その影響下で、優雅なフレンチを楽しむ為にか、その適当が選ばれてしまった。

官僚と言う世界で、何が起こっていたのか。

その影響は、何処まで根を伸ばしていたのか。

”向こう”に居る人々、それは、何を考えていたのか。

一歩100円、それを提言した意識は、そしてしかし、自分も「どうだろう」そう考えるくらいの、”それ”は一体何処でそう変質した?のか。

 

シニア世代の功罪ではある。

”それ”は無理を要求してきた気はする。

そしてしかし、現場はその無理に耐えて、そして「それをプライドにして来た」のだ、この程度の事は一人で出来る、それをしなければ暮らしていけない、働くとは。

創作にふと、「アートスケール」それを想起する事で、独裁創作、個人的な何かでも換金性を実現できそうな、その見通しの様なモノは見えてきた、と言うべきか、しかし。

”それ”は、飯塚氏の?「一歩百円」それと、どこが違う物か。

創作に価値なんか無い、そのシニア層が持つ断言は、今も否定し難い。
民主主義は無茶を言う。一歩100円に成ったら良い、しかし財源は無いし、他の仕事はどうするのか?それは、民主主義的には支持を得られるかもしれないが、具現性は無い。

そこを何とかしろと言ってるんだ。

それは、彼らの歴史だろうか、それとも、歪みの結果だろうか。

少し、黄昏つつ。



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