「いじめ」それは何から発生するか?と言えば、結局は「排斥」から、だが。
”それ”は何から?と言うと、結局は個人的な主観に寄る支配、その先ではある。
因果の話で考えるなら?そう言う「支配を目論む意識の肯定」が、結局は”自身への排斥”を産んでいく、事には成る訳で。現状解っている事は多い、人間の自由意思は不可侵で、それを害する可能性が高い独裁創作、”それ”は市場原理に多く否定される。その否定を超えて利益を目指すなら?結局は「売春」生贄の肯定、或いは強要、そう言うのが必要で、”それ”の発生はシンプルに、作品の利益性を重く損ない、市場へも悪影響が。
「だから、独裁創作は良くない」と言う説明に、納得するかしないか?は、ネグレイトされたか否か?とは、無関係だ。
理解では、「大衆は神である」その思想として、”神”は「全て」を見ている、作品の製作工程から想起の理由、それも含めあらゆるプライバシーを内包して「全て」だ。ただ、”神”には基本的には感情が無い、それへの評価は「評価基準」に依存する。”それ”に対して機械的に「反応」する結果が、実際の市場の評価に成る、訳で。その時、「何処にそんな物が描いてあるんだ!?」という要素を見抜かれるとしても、”それ”は道理として妥当性は有る。
思想としては、だ。
「大衆」それは人間の意思の総意である。人の意識とはすべからく神の一部であり、結論で神の前に人間にはプライバシーなど無い。その行為を、自分しか知らない、と言っても自分が知っているなら?神も同時に知っている。「人のプライバシーは大事だ」から、”それ”を第三者には簡単には伝えないだけ、だ。「倫理」と言うそれは、実際には自分を護る最も身近な壁でもある。
”それ”はでも、信仰ではある。
人の自由意思は大事だ、という時、信仰の強要は出来ない。相手には個性があり、その個性もまた無視出来ないのなら、相手の理解は相手の自由意思のそれでしかなく、他者が強要し得る物では無い。この時?その思想が物理と反しているとしても、それを「間違っている」と理解するのは、あくまでも自己責任ではある。
一応、人間と動物の違い、だ。こうしたらああなる、と言うのが最終的には適用出来ないのが「人間」ではある。自身の境遇が如何に幸運だと言っても、「その個性にはそうでも無い」場合は多いし、逆もまた真なり、だろう。自分の行動を決めていくのは自分でしかない、第三者の思想を受け入れるのもまた、最終的には自己責任、だ。
ともかくその上で、「物理的に上手く行ってない」それは、間違いだ、と言うのは”理解としては”正しいとは、思う。
…だから、説明を尽くしても、最終的には意味が無い部分は、ある。
個性として、それが物理に反しているとしても、それが嫌いだ、と言うのはある。
多くの人は、”それ”を「しょうがない」で諦めて違う方法論を模索する、訳だが。”それ”に固執する理由それは、人ぞれぞれだ。個性の優劣を競う、それは意味が無いので。今はとにかく「大賀さんの決定」それに依存し、その前で神判を仰ぐ、というのがこの思想的な安定、ではある。良くも悪くも、利益性、それを前に、97%以上の同意は発生している…としても。3%未満はまだ、それに重い不服がある。
らしい。
ともかく問題は、そこに見える情景に、若干の同意がある事だ。
商店街が総じて流行ってる光景が理想です。その為には一店舗だけが飛びぬけて売れる、という感じは避けるべきだし、その街全体の意向を無視しての出店も好ましくないです。全体の都市計画的に、美しく効率的に成る様、それはそこに提案され維持されねばなりません。全体は、すべからく統制が必要です。
大丈夫ですか?これ。
しかし”これ”が、結論で言えば”雅”市場、そしてストリードの連携、それが目指す理想、ではある。マクロで見れば、自由には程遠い帰結かもしれない。”今まで”はそんなんじゃ無かったのだ、何かにとっては理想的な「自由」は、しかし利益性、”それ”と共には無かっただけだ。
それでもその不満げな3%にあるこの不満は、今も微妙に、重い。