透明人間たちのひとりごと

アダムとイヴのへそ <12>

 こんなことなら、もっともっと勉強をしておけばよかった。

 ボク のいた世界(高次元時空間)では、基本的に思考が
現実(実在)化するので、 この世界で言う <理想と現実
との乖離(ギャップ)は、まずもって起こりません。 

 ただし、それは、想像の及ぶ範囲内での現実化ですので、
より高度で広大な理想を描き、それを具現化するためには、
当然の如くに勉強は欠かせない必須の要件です。

 いま 透明人間5号 の脳裏を介して、ふと過(よ)ぎる
ものは、自堕落ではなくとも、漫然とした精神活動をつづけて
いたことが、結果として、地球での遭難という事態を生んで
しまったのではないだろうかquestion2 というような 自責とも後悔とも
つかない思いなのです。

 まさか、四次元の世界で遭難して、その世界の住人と同化
(シンクロ)してゆく過程を自分自身が体験するなんて …

 もう、すでに、

 ボク を辛うじて ボク 自身だと認識している ボク
アイデンティティーは、透明人間5号 の無意識内の
占有率で言っても、わずかに数パーセントもあるかないかの
極めて微弱な存在となってしまったようなのです nose3ase

 そして、今では、そんな自己の存在さえも何だか疑わしい
ようなありさまなのです。

  2号 先生の意識とその存在が、2号 先輩のそれと
同化する今際(いまわ)に 「ここはどこWHO AM I question2
と叫んだように、いま ボク が、夢のなかで 5号 に同化
(シンクロ)しているのか それとも、5号 が、おかしな夢
を見ているのか … の判断がつかないのです。

 果たして、ボク は、いったい誰で、どこに往こうとしている
のでしょうか

  「往く河の流れは絶えずして、
        しかも、もとの水にあらず」


 奇しくも 『アダムとイヴのへそ <4>』 のなかで
2号 先生が、河の流れの水を時間(とき)の流れに変えて
嘆いていたように …

 諸行無常なれど、その存在としての否定は適いません。

 されど ボク は、この世界において、物質的にも日常的な
意味合いからも 「存在」 しない存在なのです。

 それを言葉で説明しようとすると無理が生じます。

 言語的限界と言うか、認識としての対象物でもなく、在り方
そのものが日常的にイメージする 「もの」「物・者」
とは根本的に違うのです。

 物の大小(縦・横・高さ)などの三次元的な概念や、それに
時間を加えた四次元的な概念では全く意味を成しません。

 自分自身で体験して体得する以外には本質的な意味での
理解は不可能だと言えるでしょう。

 そもそも、「存在」 するという事象自体が疑わしいもの
なのかもしれません。

 この四次元の世界に存在するものなど、本当は何ひとつ
としてないのかもしれないのです。
 
 実在し存在すると信じていた ボク 自身の主体がまもなく
消え去ろうとする間際になって、漸(ようや)く 理解できるもの
なのかもしれませんが …、

 どうやら、

 路傍に転がる石も、ニュートンのリンゴの木も、家も、川も、
森も、海も、山も、ビルも、高速道路も、レインボーブリッジも
、スカイツリーも、月も、地球も、星も、太陽も、銀河も、宇宙
でさえも、確かなものとしては存在していないようなのです。

 でも、今、こうしてブログの記事をタイプしている ボク
現に存在しているじゃないかeq って、そうではないのです。

 たとえば、あなたが夢のなかで、夢のなかの自分の存在を
否定できないのと同じように、四次元空間での自分の存在を
四次元世界のなかでは否定できないだけのことで実際には
何も存在しない幻想の世界の住人だという意味です。

 ですから、「我思う、ゆえに我あり」 なのだと、
デカルト 先生が思ったとしても、それは大いなる幻想で
あって、錯覚 であるとしか言いようがないのです。

 デカルト 先生の言う、

 実体(心身あるいは物心)二元論は、空間(縦・横・高さ)と
いった三次元の広がりを持つ思考できない延長実体(物質)
と、思考することができる空間的広がりを持たない思惟実体
(意識・精神・心)といった二つの 実体 があり、それらが
互いに独立して 存在 しているとするものですが、少なく
とも延長実体としての物質(肉体)は存在 しないのです。

 さらに言えば、あらゆる 「もの」 の存在だけではなくて、
あらゆる 「こと」 も存在しません。

 そして、「生きている」 とか、「死んでいる」 といった状態も
所詮は、ひとつの概念でしかなく、所謂(いわゆる)生と死
いうものは存在しないのです。

 つまりは、「観測が状態を決定する」 という概念を喩えた
<シュレディンガーの猫> も、「条件反射」 で
有名になった <パブロフの犬> も、当然のことに
存在しないということになるわけです。

 別の言い方をすれば、

 いまの ボク は、相対性理論における物理法則が一般化
していた世界から、ニュートン力学が日常的に通用する世界
へと降臨同化(シンクロ・ダウン)しているところなのです。

 厳正厳密にして、正確無比に、この地球世界をのぞいて
見れば、走るクルマを外から眺めている人には、ほんの少し
だけどクルマが縮んで見えているはずだし、クルマのなかの
時間は、ほんの僅(わず)かだけど遅くなっているのです。

 「でも、そんなの関係ねえexclamation2 とばかりに無視
しても、日常生活には何の支障もなく、ニュートン的な力学が
まかり通るわけです。

 このことは、地球での物理法則としての相対性理論の持つ
意味や価値がないに等しいものとなって、その存在も日常的
に無視できるということです。

 それは、本質的には 「存在」 していても、実質的な面、
つまり、現象的には 「存在」 してしないと言えるのです。

 ところが、突如として、

 クルマの速度が光速に近づくと、もうニュートンの力学では
まったくといって、歯が立たなくなってしまうのです。

 これは、地球上での物理法則がニュートン力学に対応して
いて、宇宙空間では相対性理論に従うということではなくって
根源的には、すべからく相対性理論に従うのです。 

 ただ、人間の日常的な感覚レベルでは、ニュートン力学で
十分なる理解が可能で実質的にも何の問題もありません。

 つまり、

 人間の日常的な意味での 「存在」 は、必ずしも必然性
のある事物や事象に限られるわけではなく、実質面における
蓋然性や偶然の産物ではあっても、幾らでもあり得るもので
要は、何でも構わないくらいにいい加減で適当な感性による
感覚的なものなのです。

 逆を言えば、それだけ曖昧模糊としているわけで、一般に
「存在」 として感覚的に捕らえられているものの正体は、
「存在」 としての蓋然性が極めて高くなった日常感覚的な
もの」=「事物」 を指すだけのことなのでしょう。

 嗚呼

 2号 先生に次いで、いよいよ もって ボク も … nose3ase

 透明人間5号 になってしまうのですね

 ボク が、透明人間5号 と完全(100%)にシンクロ
したら、「無」 になるのでしょうか 

 それは、「絶対無」 なのかquestion2 「相対無」 なのかquestion2

 はたまた、「虚の世界」 right ドラえもんにある反世界
のような虚数が支配する( マイナス×マイナスがマイナスと
なって、他方では プラス×プラスがマイナスになるような

正反対の世界にでもテレポーテーションされるのでしょうかeq

 『アダムとイヴのへそ <3>』 でも触れたように
ボク のいた世界では 「無」 から 「有」 の出現は、ごく
あたりまえの出来事です。

  だとしたら、ボク たちが、この世界に唐突にやってきた
ように、どこかの世界に突然に出現するのかもしれません。

 もちろん、

 それは、誰にもわかりませんが … 

コメント一覧

バカボンのパパのパパ
そうなのだ。 それは、誰にもわからないのだ!
不透明人間 ZERO
う~ん。

要するに、ハイゼンベルクの不確定性原理のことを
言いたいのかな?
桃太郎のサル
「パブロフの犬」って言うと「ワン」と鳴く!
「シュレディンガーの猫」って言うと「ニャー」と鳴く!

こだまでしょうか?

いいえ、誰でも… 条件反射の観察結果です。
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