
リュウが亡くなってから今日でちょうど半年。あちこちに転移していた癌の治療をやめ、家で静かに息を引き取らせようと考えたのは私だった。苦しい癌治療をしてもなお4ヶ月で逝ってしまった父の闘病からの教訓だった。
結局、リュウは癌治療をほとんどせず、あまりにも早く生き急いでしまった。私はその速度についていけなかった。これでよかったのだろうか、という苦悩が頭をもたげてきた。そのとき、私は、リュウと同じ種類の仔猫を迎え入れた。そしてその子を溺愛することによってその苦悩から逃れようとした。
しかし、半年が経ってもなお、新しい仔猫を前にしても、リュウの顔が一日一回は頭をよぎるし、あれでよかったのだろうかとふと考えていることに気付く。リュウの「命」は私とオットに委ねられていたのだから。 委ねられたその「命」を私たちは天に向かって投げたつもりだ。上手くいっただろうか。
忙しい毎日の中で「命」ということと本気で向き合うことは少ない。私なんかは向き合うのが怖くて新しい仔猫を迎え入れたのだから。でも、肉親を亡くした人なら分かるはずだ。その淋しさ、その迷い、その悲しさ、どんな言葉を並べても逃げても、そこに開いた心の闇を抱きながら生きなければならないということを。