あれ? そこに塚目って駅あんの?
ほらほらほら
やっぱ 謎に味覚で好きなとこって何かあんじゃね?
ーウィキーーーーーーーーーーー
大崎市(おおさきし)は、宮城県北西部に位置する市。大崎地方に属する。
794年の平安京(京都)遷都よりも更に古い東北地方では最古の1300年以上の歴史と伝統ある地域で、古川が中心地であったことが分かる
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現地で肩身狭くなるって言うか 派閥問題になると思うけど出していいか?
でなきゃずっとスルーするしかなくなるんだけど。。。
ーウィキーーーーーーーーーーー
奈良時代、古川地区に朝廷の役所がつくられた(名生館官衙遺跡)。この頃の古川は多賀城と共に、蝦夷に対する朝廷側の拠点となっていた。
室町時代、奥州探題の大崎氏が現在の大崎市古川地区の名生城を居城とした。大崎氏は室町幕府の管領家(三管領)の筆頭である斯波氏の親戚に当たる。
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よーく見てみろ 出してる史実が抜粋抽出されてんだ 特定層に都合よく。
大崎氏はほんとに斯波の派生と言い切れるか? それは最近の武家調査でも
明らか 成りすましが横行してた ノレン使ってるだけだった
と言っても斯波とは親兄弟風にも見えるけどな。
しかし そこの麩は そこにそぐわない
あたしの血が食ってたような味がする。
あのさ 古代朝廷の出先で集合した人口あったなら その先に多賀国府は
辻褄合うわけで 斯波はそれを横恋慕し略奪形式で乗っ取りした側だと思う
んだけど。
んで、塩釜よりだいぶ内陸の耕作エリアでもありそうで。
ちょうど 大崎が境だったんだ 大滝丸と多賀丸の管轄エリア
つーことは どんぐり食ってた日本人!!!とか言う風評はあっち行けって
話である程度の文明作ってたエリアの1つだ
そういう場所に 我天子なり!!と自称した連中の末端がそこを武力行使
したわけで、その勢力って朝廷自体も乗っ取りした勢力なんだけど。
乗っ取り勢力の中に坂上田村麻呂や斯波はいたんだけど。
その坂上田村麻呂に首切りされてるのが大滝丸で多賀は伊勢に首切りされてる
ように作られてんだけど。
大滝丸は秋田の入り江 多賀は多賀の入り江にかまえてた
これが あたしが昔ヤフーに書いてた 直接唐からの仕入れ出入り口なんだけど。
思いませんか? 何で奈良から室町にジャンプしてる部分が不思議って。
ああ 集落民が移動したんだ 当時。
分散したか。
でも白江村の戦いで人を出したメンバーに安倍は入ってる。その安倍が
安倍晋三の家系と匂わせはあったけど それで繋いだら安倍晋三は百済救援
メンバーにカウントされ 大滝丸を斬首したメンバー側なのね。
安倍って名字は大滝丸ではないな!!!!
大滝丸は多賀丸と一緒の公務員的人物で これを処刑した朝廷って
乗っ取りしてきた百済朝廷のほう。
これに安倍がハマる訳ねーな でも、その後 秋田から大崎まで覇権きかせてた安倍氏と言うのはいる。これは別で見ないと駄目だな。
その大滝丸の首を討ち取ったぞ!!と言ってたのは坂上田村麻呂で
その首を獲ったとされるいわくつきの地名が「鬼首」
2014年前後に調べてた内容だよ。
んで、その場所は大滝丸は遺体をバラバラにされ 胴体と頭と手?
別々に埋葬されたような伝説になってて
その一箇所がどうも天台宗絡んでるもよう。
大滝丸と多賀丸が死んだと見なされた後だね 後三年の役とか。
こん時 対峙してるのが、源頼義vs安倍
んで頼義は北上していったのさ 頼義が持ってたエリアがちょうど多賀丸
いたエリアで、大滝丸いたエリアがどうも安倍くさい。
んで顕家が出た時期 顕家は頼義の跡を追ってたフシがあるんで
そのエリア担当にはなってた。
んでも顕家が秋田まで行ってたふうではない。
南下するほうが多かったせいもあった。
ちょうど 大滝丸って誰なんだろうねーって当時のブログに書いてたんだけど
王滝丸とも書かれてた。「御御嶽」 今変換ワードでこれも出てきた。
これじゃ御嶽山をイメージしちゃうな
でも御嶽からの大滝でなく 大多喜 こっち臭いな なんか。。。
喜多方 ああ 喜多方の逆か。。気の所為じゃないと思うな
喜多方の熊野神社の入り口に頼義がまわったと書いてあったはず。
義家じゃないもんな 頼義だな。
んで熊野権現どーのこーのって書いてあった記憶。
アレみて ああここかーって思った記憶あり。
それ斬首した側が斯波サイドで これは百済朝廷の幹部的ポジションにまで
なってた計算で、その斯波エリアに山寺あって清和天皇の墓があって
その派生で清和源氏がいて、その派生で直近では清和会あって
清和会のボス的位置に安倍親子がいんだけど。
清和会は李氏朝鮮なんだけど。あたし李氏朝鮮じゃないんだけど。
絶対出世するグループ血統が 全部仇になってるんだけど。
古くの日教組カルトや軍事スパイや兵隊がこぞって大日本帝国臣民として
皇民と呼ぶ教育脳になってるんだけど。
んで 斯波 焚書しやがったな。
ほら 中国の司馬の史実が正しいなんて
信用できないのがここでも出てきた。
斯波(シバ)は司馬(シバ)でもある。ああやっぱ
馬韓(バカン)なんじゃねーの?
斯波(シバ)って。
大昔 言語や伝達できないで生活なんぞ出来ない。そうなれば読みを当て字にする。外人がシヴァと言えば 当て字にし、「司馬」と用いそれを使うとしたら、それを名前に使いたいと思った連中は使いそうだろ。
んじゃどっから聞いたの?となれば インド経由のシヴァ信仰の内容を知ってか、あるいはそういう層との会話で聞いてその語源を漢字に当て字にしたか。
シヴァと聞いて あえて司馬と用いた理由
馬と言う字が入ってる時点で
1,騎馬民族系だった
2,馬韓民族だった可能性
百済は三韓の延長 馬韓 秦韓 辰韓
ここ数年 やばいと思ってる連中が書き直しをやってる。
一度覚えられたもんは 永久に出る。
間違ってましたと、あたしが2つもブログ消された後に1つのブログは
はてなブログに移行にされて そんで直してくるって
卑怯だろ? あたしのブログ返せって。
秦は モンゴル含む秦 殷の派生で軍隊大元が騎馬民族の兵隊や協力者
辰にするとベトナムまで入っちゃうのな それをあたしが大騒ぎして
なぜか外してきた。
三韓は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した集団とその地域。朝鮮半島南部に居住していた人々を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。三韓の「韓」については語源が諸説あり、一定しない。衛氏朝鮮の「辰国」である。 ウィキペディア
どんな屁理屈だそうが 三韓はあたしが騒いでなきゃ 馬韓 秦韓 辰韓
つまり こうする事で都合良かった連中がいたって事 あたしが言いたい部分
馬韓を制し 秦を制し ベトナムも制する 李氏朝鮮側ならこうしたい?
李氏はベトナム仕切ってた時代あんだよな? その功績を大昔表に出したいと
なれば三韓征伐という文句は 誰らにとって都合良かったか。
李氏だな
んじゃ三韓征伐したとされてる神功は誰?ってなった時 李氏じゃねーだろ
李氏は神代の人を殺しては やった歴史を背乗りしてきたんだろ
その威光を背乗りしてきたんだろ
ああ 今と一緒で。
ちょうどな 後ろにいて自分がやった功績にする公ぶった公人もどき?
坂上田村麻呂は李氏の番頭 桓武天皇っていうのは李氏朝鮮派生。
東北に固執する必要ねーだろ 四国だって九州だって関東だってもいい
なのに東北進出 この理由は 百済を滅ぼした勢力が東北にあったからだ
こう 昔から書いてる。でもそれは安倍ではない。
やっぱ秋田と多賀入り江は唐との交流窓口あったんだ。
唐に潰されたんだから 百済って。新潟も窓口だったと予想はできるけど
すぐ扶余に乗っ取りされただろ。
乗っ取りされた理由 翡翠が採れたのがわかった為。
んじゃ 桓武らが東北まで出てきた理由 たぶん金の採掘場所情報を
入手したから。
んじゃ 数十人で金の採掘場所を見つけても せいぜい 2,3ケ所?
桓武は軍隊引き連れてくる前 その前にエリアで採掘部隊がかなりいた
場所を支配しにきた。桓武が来る前に 一部は確立されてたもんを
武力行使で取りにきた。
このやり方ってさ 上海の軍と似てない?
斯波(シバ)と書き ペルシャと入力する ペルシャと入力したら
311以降は斯波と出てきた。何年もだ。そんであたしが、ペルシャは
斯波なの?って言い出して調べだしたんだ。
もう出なくされても やった事は消えないぜ? 騙してたんだ
斯波はペルシャだって。
清和天皇の墓がある山寺は斯波のテリトリーだった。
その近くが天童市の入り口で、そのあたりに北畠神社というものが建って
いて、祭神は北畠親房と北畠顕信にされてた。
でもその神社は現地じゃ需要ない感じで 明らかに出目の捏造の為に
建立した風でもあった。
そこから 天童丸って言う ありもしない第三子の存在を作るのに捏造者
が動いてた事を勘で察知。
天童氏は里見と斯波の派生で 電通の里見はじめ ありゃチョンだ。
斯波もチョンなら ああ戸籍乗っ取りだ こうなる。
大昔の日本名字って背乗りするのに有効だったんだな
里見という名字は 電通の里見でピンときた 満州鉄道にアヘン ああ~
んじゃ斯波は司馬の当て字を変えたもんだと思ってはいたけど
当時ペルシャの変換で出てて おかしいと何度もブログに書いてたけど
消されて 今じゃ出ない。。。
司馬の派生が斯波で 馬韓だろ 一部は秦の兵隊が混ざってただろ
あたし思うに。
んでそいつらなら 名前に「馬」と用いてる。
古い所に「馬頭観音」の石が多々あるけど それを拠り所にしてた密教って
こいつらだろ
一部は首吊って死ぬ話になるだろうけど 今までしらばっくれて隠して
利権持ってたんだからさ それが長いほど恨まれる話でさ。
んで これがバレないと、この先も数百年 子が必ず出世し守られる
構造続いてたと思う訳でさ。
あたしに害ない人も多々いるとは思う。でも害ある方が金と肩書あれば
そのエリア自体が危ないエリアと見なされる あたしにとって。
目をつぶってやっても なぜか 害あるほうが金を吸い上げる為に
やっても無駄に思える事も多々ある。
全体的に衰退してるのは害あるほうが金持ってて従業員をかなり雇って
人質掴んでるような状態だから 全部が巻沿い食う。
あたし 喜多方のとある寺のとこに行った時 寺の入り口というか
新しい看板。つまり その場所って後に金ある集団がのっとる事は容易で
過去の部分を空白にし 都合のいい歴史部分のみを宣伝材料にし
歴史を利用されてしまう事がわかった。
あるいは うちが過去帖預けてた安養寺は天台宗だったり真言宗だったり
何度も火事にあったり 場所を移動したり グチャグチャ。
そんなとこしか預けるとこねーのか?って話だけど スパイだらけだった
のと、そうなる時代は数十年あっても次の世代も同じ事すれば100年は
続くし、そんなとこに預けるのが本書なのか写しなのか
なんせ 奉行と語る連中自体が集団武力行使の仇なんだから。
こいつらも馬韓だよな? ああそうなら馬頭観音の意味もなんとなくわかる。
司馬って秦の兵隊みたいなもんだろ それが馬韓になっても一緒
軍隊もどき。
公家武将ってもっと高貴だけど。公家なんで。
公家役人を殺して兵隊が成りすましをする。これって公家への背乗りな。
だから馬面竹田恒泰 まったく公家臭がねーんだよ 宗教くさいだけで。
つーか竹田 愛人の子供の派生な しかも明治天皇の玄孫語って
その明治天皇って 自称後醍醐天皇子孫の大室寅之祐な。
武家が お守りしますって雰囲気出しても 金や物を先に返せって
言われてるのが聞こえないんだな?
大崎方面 まあ遠いせいもあっけど、部分的に穢れくさい風あんだよなー
斯波のせいじゃないだろうか
いつだったか 立ち寄った天台宗の寺の場所は日中はいい 夜間は
出歩かないほうがいい雰囲気だった。
あそこだっけ? 大滝丸の祟り封じやってた場所って
まあ 山間部なんて、そういう場所ばっかりだけどな。
なんつー寺だったっけな
中の杉の木とか あの中はいいんだ。出て外歩いてたら背中にぞっときた。
霊感ある人 あたし一人か二人 連れていかんと 駄目かな?
やばそーなとこは。なるべくは、、行けないな 負けるかもしれない。
そういう時は 行けない場所あんでしょ
自分の体調とかも含め。。。
んで あとは地権者が自分の利権で土地を転がしてると そういう不浄な
もんをループさせてる場合もあるしな。
たぶん 若い子だって勘ある子は ここはいい場所ってわかると思う。
地域活性目指すなら まず 特化されてないとこでも、不浄じゃない
場所を見つける事 写真を出す事。
グーグル・マップとかに写真出すと、たまに出先で探す事もあるし。
寄り道する場所。
当面は高速代もかかるし 吟味だけしておく感じで。
古い土地ならなんかまだありそーだけどな それをされたくねーだろうな
過去の武家は。あたしはきっと嫌がられる。そーすると遠慮する。
でも1回は確かめておきたいかなーと思うからまた見て また保留にする。
ああ 国府 岡山の国府と鳥取の国府位置は まあ納得の場所だ。
由良を見つけた理由 由良の出目 メチャクチャ
この場所 通過点だろうな んで北条がついてたって事がな
逆にちょっとした重要拠点だった可能性
んで焚書歴も感じる。
鳥取県の中部に位置し、日本海に面している。河川は町の中心あたりを流れる由良川と東端を流れる天神川があり、北条平野という三角州の低地になっている。海岸線には北条砂丘があり、日本海側気候で豪雪地帯となっている。
背乗りされてた感あり 見ると、あれ?見た事ある名前 名字だって
かなりある。
新田系は村上系とつるんでたな?
つーことは清和源氏と後醍醐派が組んでた事も意味するし そこに斯波も
いる。
前に国府から60キロは住まいまで離れてたと書いてた事がある。
ああ 日付変わった。もう寝ないと。では