アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

倭の五王 続

2016-05-22 19:37:13 | 皇室問題

倭の五王
www.bell.jp/pancho/travel/furuiti.../goou.htm - キャッシュ
同時代に編纂された中国の史書に登場する倭王たち. 『宋書』は、南朝の宋(420-479)・ 斉(479-502)・梁(502-557)に仕えた沈約(441-513)が、永明5年(487)春、斉の武帝に 命ぜられて編纂した史書である。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる ..

倭の五王(わのごおう)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/倭の五王-154280 - キャッシュ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 倭の五王の用語解説 - 『宋書』『南斉書』『梁書 』など中国の六朝時代の史書に記された倭国の讃 (さん) ,珍 (ちん) ,済 (せい) ,興 ( こう) ,武 (ぶ) の5人の王をさす。 413年倭王が東晋へ,425年倭王讃が宋へ,438年倭 ...
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古事記自体があてにならない理由は明白↓

そして倭の五王は古事記が書かれる以前のもの。

そして宋に朝貢したものが五王と位置づけられている確証がどんだけあるのか。


古事記

記紀編纂の要因[編集]
中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。

この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。

『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ「国記」は難を逃れ天智天皇に献上されたとされるが、共に現存しない。


天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため記紀編纂の余裕はなかった。


その時点で既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実がない交ぜられていた。

壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる国史の編纂を命じた。

まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に古事記が編纂された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98





天智天皇

漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる[1]。

大化の改新と即位[編集]
舒明天皇の第2皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。また有間皇子など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。

百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図った。百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)斉明天皇が崩御した。

その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制したが、天智天皇2年7月20日(663年8月28日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、同6年3月19日(667年4月17日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、翌同7年1月3日(668年2月20日)、漸く即位した。

同年2月23日(668年4月10日)には、同母弟・大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、同9年11月16日(671年1月2日)に第一皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、同10年10月17日(671年11月23日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。

なお、斉明天皇崩御(661年)後に即日中大兄皇子は称制して暦が分かりにくくなっているが、日本書紀では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、崩御翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。

白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。

また、皇太子時代の斉明天皇6年(660年)と天智天皇10年(671年)に漏刻(水時計)を作って国民に時を知らせたことは著名で、後者の日付(4月25日)をグレゴリオ暦に直した6月10日は時の記念日として知られる。

中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか存在する。

遣新羅使[編集]
天智天皇7(668年)新羅の文武王の代に使節を送った
天智天皇9(670年)新羅の文武王の代に使節を送った

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87


ちなみに天智の

淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる[1]。

という記録は、人食いシャーマン宗教軍隊の殷を指す。



ほんで、あたしの考えでいけば宋時代400年代に日本にあった豪族エリアを特定していく。

そのエリアに中国文化の流通があった事と照合しそこの頭領を割り出せば、あたし的には

それが倭の五王。



まず一つ

五王のひとつにあたしがカウントしてるのが多娥丸の一族。

そんでエリアが宮城野区・多賀・石巻・釜石くらいまでか

ちなみに多娥丸が歴史から消されてるのも、五王に当てはまるかもしれない理由。

そして多娥丸は夏代の系統。

国史跡 雷神山古墳 宮城県名取市 - 墳丘からの眺め - massneko
massneko.hatenablog.com/entry/2014/05/25/070000 - キャッシュ
名取市は仙台平野の南部に位置し、東北最大規模を誇る前方後円墳の史跡雷神山 古墳(主軸168m)をはじめ、高塚古墳 ... 両古墳の時代が西暦400年前後、そこから 多賀城創建(724年)までは300年ほど、坂上田村麻呂が来るのは802年 ...



三輪氏あるいは大神氏

ホケノ山古墳

築造年代 3世紀中頃[1]

所在地:三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側の丘陵。
被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓としている)。
築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されている。前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものであるとする見方が出されている[2]。
墳形:纒向型前方後円墳(葺石あり)[1]、円墳に短い前方部を東南方向に付けている[3]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%B1%E3%83%8E%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3


萩原墳墓群 ※あたしの考えだと同じ三輪氏(大神氏)

築造年代 3世紀前葉

概要[編集]
鳴門市の大麻山南麓に位置し、1〜4号の4基からなる墳丘墓群で、かつては最初期の古墳の可能性から「-号墳」の呼称が用いられたこともあったが、その後の調査によって弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されているため、「-号墓」の呼称に修正されている。周辺には天河別神社古墳群や宝幢寺古墳群などの古墳が点在している。
主体部(埋葬施設)の構造などから現在では日本最古の前方後円墳とされるホケノ山古墳の原型との説がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%8E%9F%E5%A2%B3%E5%A2%93%E7%BE%A4


→あたしの考えだと古代いた人たちの場所を陣取りしたのが忌部氏では??

起きてきたのが5世紀という事は、今焦点にしてる400年代よりも後だ。

大和朝廷の祭事とあるけど、祭事にイケニエ含まれてないか??

あたしの思ってる大和朝廷の主軸は斉(三韓)と漢族なんだが。

ほんでその興隆に東北の埋蔵金使われてんだが・・・。

かっぱらいしてんだが、その連中が。


※わかった! 殷部(いんべ) 斎部(さいべ) 


やっぱりこの連中 斉の派生↓

忌部氏(いんべうじ)、のち斎部氏(いんべうじ)は、「忌部」または「斎部」を氏の名とする氏族。
天太玉命を祖とする神別(天神)の古代氏族で、「忌部首(いんべのおびと)」、「忌部連(いんべのむらじ)」、「忌部宿禰(いんべのすくね)」のち「斎部宿禰」姓を称した。古代朝廷における祭祀を担った氏族である。
概要[編集]
氏族名の「忌(いむ)」が「ケガレを忌む」すなわち「斎戒」を意味するように、古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族である。古代日本には各地に部民としての「忌部」が設けられていたが、狭義にはそれらを率いた中央氏族の忌部氏を指し、広義には率いられた部民の氏族も含める。
中央氏族としての忌部氏は、記紀の天岩戸神話にも現れる天太玉命を祖とする。現在の奈良県橿原市忌部町周辺を根拠地とし、各地の忌部を率いて中臣氏とともに古くから朝廷の祭祀を司った。しかしながら、勢力を増す中臣氏に奈良時代頃から押され始め、固有の職掌にも就けない事態が増加した。平安時代前期には、名を「斎部」と改めたのち、斎部広成により『古語拾遺』が著された。しかしその後も状況は変わらず、祭祀氏族の座は中臣氏・大中臣氏に占有されていった。
歴史[編集]
忌部氏は、5世紀後半から6世紀前半頃にその地位を確立したとされ[1]、当初は「忌部首(おびと)」を名乗った[2]。大和国高市郡金橋村忌部(現 奈良県橿原市忌部町)を本貫(根拠地)とし[2]、現在も祖神の天太玉命を祀る天太玉命神社(式内名神大社)が残る。また、出雲・紀伊・阿波・讃岐等に設置されていた品部を掌握して物資を徴収したほか、祭具の作製や神殿・宮殿造営に携わった。
忌部[編集]
忌部(いんべ)は、大化以前に設けられた部民の1つ。
大きく分けて、朝廷に属する品部(ともべ = 職業集団)と中央の忌部氏の部曲(かきべ = 私有民)の2種類が存在した。
出雲忌部
地域:出雲国 - 現在の島根県松江市東忌部町・西忌部町周辺。
祖神:櫛明玉命 - 忌部五部神。
職掌:玉の貢納
関係地
忌部神社(島根県松江市)
紀伊忌部
地域:紀伊国名草郡御木郷・麁香郷
『古語拾遺』では「御木」は木を採る忌部、「麁香」[注 2]は殿を造る忌部がいたことによるとする。『和名類聚抄』では、紀伊国名草郡に忌部郷と神戸郷(忌部神戸か)が見え、和歌山県和歌山市鳴神の鳴神社付近に比定される[4]。
祖神:彦狭知命 - 忌部五部神。
職掌:材木の貢納、宮殿・社殿造営
関係地
鳴神社(和歌山県和歌山市) - 式内社(名神大)。
阿波忌部
地域:阿波国麻植郡忌部郷
『古語拾遺』では郡名「麻植」は阿波忌部が麻を植えたことによるとする。また後述のように『古語拾遺』には東遷説話が記されている。
祖神:天日鷲命 - 忌部五部神。
職掌:木綿・麻布の貢納
関係地
大麻比古神社(徳島県鳴門市) - 式内社(名神大)。
忌部神社 - 名神大社。論社に忌部神社(徳島県吉野川市)、後継社に忌部神社(徳島県徳島市)。
讃岐忌部
地域:讃岐国
祖神:手置帆負命 - 忌部五部神。
職掌:盾の貢納
関係地
粟井神社(香川県観音寺市) - 式内社(名神大)。
讃岐神社(奈良県北葛城郡広陵町) - 式内社。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E6%B0%8F

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