アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

10月7日 プーチン誕生日おめでとう。天童丸の正体がわかった。長慶天皇(熙成親王)=北畠顕家の孫だ。

2023-10-07 23:52:30 | 日記
ものすごく時間がかかって作ってるこの作図が 
どういう訳か保存かからない
だからとりあえず写真撮ってあげた次第



青森・秋田・山形・福島・岩手・宮城の一部はコレ出されると困る人達がいる
満州移民と満州関東軍で肩書得た行政職側や インチキ戸籍で作った爵位メンバー それ支援してた地方農民と教員達

日本人ならば、北畠顕家の孫と言えるだろ?
なぜ顕家の子に天童丸だと騒いできたのか。
なぜ相馬一族が戸籍乗っ取りしてうちを相馬に仕立てあげたのか。

相馬一族の名を何度も時間かけ複数資料本の全体照合かけて割り出した
誰コイツ?っていうのを

安倍晋三は安倍姓使ってるが、これが大江・橘らと混ざってる
橘墨虎(亘理町にいた賊)と書かれた文献もあるようだが、これが安倍頼時の武将になってた これが飯館村の佐須という地域で殺された橘墨虎

これが、ある時期から相馬藩で甲冑作ってる家になってる 
相馬藩側に立って安倍は阿部という姓も使ってる感じだ。

この安倍の苗字が秋田にあったのに安倍晋三は被っているわけで、この安倍の苗字は関西で安倍晴明として陰陽師の有名人として宣伝されてた。
安倍頼時の後裔が丸森舘矢間に在する。霊山記略P197
大江と一緒の行動してた安倍と橘

李晋三側が安倍晴明役側で、中塚昌胤という人間まで輩出させて
その中塚の派生・孫かもしれないが 安倍晴明まつってる神社宮司じゃないか
うちが悪霊みたいにされだしたのはいつからなんだ?

それが相馬に相当食い込んでたのと、アキヒト一家の姉の家系がある時期から
南部役と伊達役をやっている。
伊達藩藩主とぬかし、伊達宗城と池田章政そっくり。
岩手南部伯爵家とぬかし、池田隆政 池田詮政 南部利克 南部利恭
そっくり。




天童丸はうちだった 北畠顕家の実子顕成の子 長慶天皇の事だ
青森で相当妥当な資料出してたおかげで城館資料が役に立った
見てるだけでものすごい量だけに具合悪くなる

天童というワードについて
今年・中国に天童如浄という人物を発見した、ただし1163-1228年の人物
天童山景徳寺の第31世住職・日本曹洞宗の開祖道元の師とあるが、これも怪しい所はある

天童という単語は、天の子を現す事もできる。つまり天子。
天皇を意味する単語。
当初、山形天童という地域に由来した天童丸と言う名だと思ってた。
まったくの逆で、熙成が山形のどこかで生まれてその地域か、居住してた地域を天童と言い出したんだ。
テル熙成は福島で生まれたんじゃなく、父顕成は一時的山形へ行ってた頃。
北畠熙成が長慶天皇だ。なぜ後醍醐天皇だの、後村上天皇だのと言い、いつまでも下僕洗脳してきてたんだ?泥棒朝鮮貴族たち。長慶天皇が顕成の息子だから、立場は対等だったんだ。これをずっと隠してたんだ この国。
テル熙成と読ませてたから、池田輝テル政 当て字違いを使う子が出た。

昔の古文にひらがな降っていない。だからいかようにも読めるし流布できた。
これがトリックに使われた。ある時期から池田の家でうちの子孫を演じてた。
その池田の家にアキヒトの姉が嫁いでいるし、爵位制度の頃 伊達や南部に岡山の池田経由の子供らが藩主として君臨してた 養子として。あげくの果てに、昔親戚だったから。。とか 親族だからとか言い出す青田朝鮮人みたいな事言ってたわけだ。昔親族だったからと言ってるヤツに黒木と志賀、あと立谷、大内、多田。
戸籍横流しして己らの出目を作ってた朝鮮移民大日本帝国陸軍教育部と、大日本帝国海軍の階級あった連中。


山形で顕信の息子守親・その子顕能と一緒にいたとは思っていない。
行ってた時期、霊山記略で見た感じ顕能と守親は青森にすでに行ってるから。
だから山形県内でも別々の場所だったと思ってる。
大江顕(北畠顕家の娘)も山形移住してる可能性がある。
これに丸森大江の家は追従移動してたら、場所は寒河江のそば大江の地域だ。
寒河江は大江で最上 最上が天童を称した 全部大江と伊達方面では❓

丸森大江らはこのあたりをよくわかっていない。
丸森大江は梁川大枝と混在している。
伊達の牛タンがほとんどアメリカ産で、伊達の鶏肉が輸入肉だって出す必要ある。
梁川城築城は1500年代で梁川が伊達を称し相馬を称し、いわばうちの戸籍使った金の使いこみで出来た城だ。大枝城の築城は室町から戦国期とされてる。こっちも同様だ。その使いこみの名義に相馬顕胤という名を集団で使ってた連中。この相馬顕胤こそ公卿北畠親成だ。浪岡吉左衛門。浪岡吉左衛門の父親が相馬盛胤で?相馬盛胤とは蘆名や梁川や懸田や、伊達と称した一派の盛の字が付くヤツにされてるが、
全然違うだろ💢名義泥棒の畜生たち

青森の関係先か京都・郡山で顕成は誰かの娘と一緒になって子供できている。
この子が熙成親王と言えるのだから、この相手が日野では?と言ってるんだ。
日野の娘と一緒になったから日野側で顕家と萩姫の間に子が出来たと騒いでいたんだ。ただ、その娘の名がわからなくて、唯一わかってる萩姫の萩って名を流布してただけだろ❓青森の将軍塚のそばに萩館という場所がある。
顕成の妻が日野萩姫だったら、相当年上の計算だが。

北畠顕能の親は北畠守親 親王扱いされていない。
でもこれを伊勢側と朝鮮組織が無理くり 顕家の子にでっち上げ
顕信の子を即位した天皇の子みたいに捏造。
北畠顕信の息子が守親 その子が顕能。守親の妻が日野萩姫だったら
顕能の母となるが、どう考えても浪岡御所から将軍塚+萩館は離れてる。
将軍塚と萩館の先に長慶平がある。これは顕家の子の関係で顕信のほうではない。
長慶天皇の時、九州制圧起きてるから長慶天皇の当時使った船・人員の金・勢力あれば、京都舞鶴湾から新潟にもよれる、鶴岡にも秋田にもよれる。青森沿岸の鯵ヶ沢城だって行ける。

顕能と守親(伊勢側では伊勢国司とし、この2名を記事にしてる)が最初 
青森浪岡郷入って浪岡氏を言い出した時期は1353年なんだ。
浪岡郷とは川原御所の位置を指して、鯵ヶ沢城とはまったく別。
ましてや鯵ヶ沢城に天童山と名付けたなら、これは長慶天皇側だ。
顕能は九州の筑紫が任地の時逝去 
顕成(父顕家)と守親(父顕信)が顕家・顕信の息子世代。※歳は離れてる
守親が息子を亡くして、うちの顕成の子長慶を 俺の息子だと捏造しだしたら
これはあり得る。

顕成の子(熙成)が後村上天皇の子でもなく養子でもなく、ただ皇位継承が途絶えるって窮地で立太子し長慶天皇の名で即位したんだ。
霊山記略はそういうニュアンスで書いてあるんだから、うちで即位したのは
養子でなく、役職だけで後村上天皇とは親子関係ではない。
数十年即位期間中は関西と山形と九州を行き来したかもしれないが、血統繋がってる訳じゃないから退位の頃揉めるだろう、しかし貞成親王立太子でこれが後亀山天皇になってる。名前と時期的に熙成の子が貞成でうちの血統になる。
1383年禅譲となるまでわりと短い。

北畠顕家の孫 熙成親王(長慶天皇)
天童と呼ばれたエリアに熙成が産まれて住んでて、即位で出て行った時期
熙成1354年生まれ
熙成1357年立太子
熙成1368年即位長慶天皇と称す
貞成1369年生まれ
最上1374年から天童氏と言い出す ※6年後追い出された❓
     そして最上・斯波らが天童氏を名のりだすなら身分乗っ取り状態
     過去帖窃盗し大勢で身分共有者ぶってたら、こういう事態になる  
熙成1374年~1375年青森鯵ヶ沢に館・城を建築始める
     山形の天童という地域名は熙成がそう呼ばれた為で、今度青森の
     地に天童山という名称をつけわかるようにした
     舞鶴というワードは京都で、このワードもそこにある
     京都の舞鶴港から往来してた事を意味する
     そうであれば、即位期間中に建築やってた
熙成1383年禅譲息子の貞成が即位
熙成1383年隠居で青森鯵ヶ沢城入り、西津軽郡深浦を「長慶平」と命名
顕成1397年日尊上人として多分、丸森筆甫の愛敬院の場所で死んでる
貞成1389年神器を後小松に返却し南北朝廷戦争は終焉

吉左衛門のはじまり
顕成    郡山の一画に潜む 多田野姓を使い出す(女が多田野姓だった)
多田野吉左衛門

親成1542年田中城の戦で真野農民を桑折・黒木・相馬・武石勢に殺される
浪岡吉左衛門
浪岡吉左衛門 北畠【右衛門督】源親成※【右衛門督】という業界肩書だった
この親成は北畠顕家のほうの子で、顕信側の子ではない
織田信雄が田丸に親成暗殺を命じ、殺したというのは都市伝説
公卿やってたのに織田信雄側は殺したと言う?
織田信雄1558-1630  はい・田中城の頃の同時期該当者は、親成だね
桑折側が田中城に顕家の子式部少輔が入ってたと証言出してる
親成は霊山記略のP75  津軽行岡御館(浪岡御所)正三位北畠右衛門督親成卿の事
では1500年代青森 1562年北畠具信が浪岡御所(御所川原)再興の1件くらい❓
だから、相馬略史で相馬顕胤って存在の歴史が部分圧縮なんだ
蒲生氏郷親子の1文字からしか 相馬郷胤?ってのと一緒で、その地域いるだけで領主・藩主と呼ばれた分だけ記載し、その子が その親が なんて捏造するんだから、たまったもんじゃない

上の画像に書いたけど、どこかに北畠顕邦って名があった 青森調べで。
これは北畠顕国と同じ発音になる。
影武者やってるつもりか? 名前しか身分あらわさない時代に文字替えで同時期に他所で似た発音の名が出てきたら まず疑う

北畠顕成=北畠顕国=玉野式部少輔=日尊上人

北畠顕国という名は宇津峯城攻撃されてる時に出ている。つまり1300年代。
霊山城の近く、大石の近辺で北畠一門の重鎮と呼ばれてた霊山記略P87
正四位北畠春日侍従源顕国 大石平城主霊山記略P75
守永親王走って宇津峯城に入る、春日侍従源顕国卿これに従う霊山記略P125
福島中世城館資料から北畠顕国の名が出てくる城・館
福島市渡利方面 椿館 郡山市 このあたりに出てきてた 
正確に出すにはもう1度300ページほどの資料を漁らないといけない

毛利と大江と大枝について 霊山記略P180-184
大江は阿保親王(平城天皇の第1皇子)の子孫と出されてる
そして宮城県伊具郡丸森町舘矢間と角田市の境に施設があって、そこに昔から有名武将が訪ねてきたと言ってる
相当前に行ってみた時、舘矢間の施設だが、
入口に安倍うんたら書いた大きな木板を見た。
これが安倍頼時の子孫をアピールしてた道具。安倍晋三と大江の癒着証拠。
大江の自宅は、丸森町下滝だったのに、なぜ舘矢間に有名武将が来たと❓
だったら、自宅はこっちだけど元々あっちの館に住んでた表記があってもいい
下滝にあった大江の家は平安時代?に建てた古い格式の家だったんだ。
当時有名だったんじゃないのか❓平安時代に建てた家というのも嘘だろうが。
当時福島県会議員の相澤金之丞がそうはっきり言ってたくらいだが。
なぜ解体した?
その自宅あった場所を引き払ってるのはいつなのか。そこに居た時うちで訪ねてるし
その時、多々古書・遺物がここにあるように言ってたはずだ、その場所は舘矢間ではない。
どういう事なのか不明
この大江と安倍の血筋を繋げたのははっきりしてる、あとは梁川の大枝がこれと繋がるのか?って話 梁川の大枝は本姓が伊達だったんだぜ?伊達が大江を称してたんだ
大江と大枝は同じ読み 連中は、大枝はオオエダと言い出すかもしれないが。
どうも大條という姓も使ってたらしいが、この字は明治維新頃の新規苗字な気がするが。


鹿島の神社仏閣の本で、大江と鹿島上栃窪が蛇ワードで繋がった。
大江はそこを出入りしてた。




大江の宗吽院は聖武天皇の祈願所だったような看板が出てた
今は撤去されてる




いつぞや 梁川の大枝のほうで「間野マノはここにあるのよ💢鹿島じゃないわ💢」と騒いでたよな❓これ含め どれほど畜生嘘吐きかわかる。
真野マノ五郎はもともと鹿島の真野郷領主長者だぜ?
桜平山と中館に館を作ってた当時の領主だぞ?桜平山のほうが古いのに
何も残ってない 武家でもない公卿寄りだった真野が賊に襲われた
松代は霊山から山王平(上栃窪)抜けて真野長者のほうへ避難してるのに
何でわざわざ桑折町まで行くと?霊山から桑折町へ避難したら、真野に来る必要だってないでしょ。何キロあると思ってるんだ❓相馬藩の歴史文献は異常に捏造てんこもり。この相馬藩主側を伊達市がやってた計算だ うちの親成使って。

福島中世城館資料P63  大枝城 伊達宗遠の三男孫三郎宗行1394年頃、梁川町大枝に居住し、大枝(大条含む)と称した。1590年廃城

天童氏を称する最上と伊達梁川(大枝)と織田
伊達宗遠側が永井(長井)を称し、武石行胤(相馬行胤)や桑折を傘下にした。
父が伊達行朝。武石行胤が相馬行胤の時、全員 相馬と伊達を一緒にしてる計算。

伊達 宗遠(だて むねとお)は、南北朝時代の武将。官位は従五位下・弾正少弼。伊達氏8代当主。
生涯[編集]
天授6年/康暦2年(1380年)頃から長井氏を攻め立てた。宗遠は周辺各氏との一揆契約や騙し討ちなどの謀略を駆使し、長井氏を確実に切り崩していった。結局元中2年/至徳2年(1385年)には長井氏は滅亡し、伊達氏は米沢を手に入れる事になった。
天授7年/康暦3年(1381年)には大崎氏と戦い信夫郡・刈田郡・伊具郡・柴田郡を奪い、また、武石行胤を破り亘理郡も実質的な支配下に組み入れている。
この時代には小沢氏、余目氏などと一揆契約を結んでいる。また、米沢の成島八幡宮の拝殿を改築している。
宗遠の子・宗行は大條氏(大枝)[1]の祖となった。

舞鶴山に築かれ、別名舞鶴城、天童古城
うちだ もう天童に必要のない名称
追い出したっていうのは大江側の言い分
仕事で出て行った これ以外に何がある❓青森に移動してたとしたら
今時の若い人は何ら巻き沿い食ってるだけで関心ないから
上級国民をこれで作るのやめてもらいたい もともと便乗なんだから
そっちが。織田信雄側が全部パクリ 織田信雄側の森可成が相当工作員を使った証拠だけど、相馬秀胤語り、織田信恒等という名で天童城主❓
相馬の名すら吐き気がする 


天童城 ストーカー織田伊勢信雄側
北畠顕信の子を詐称する集団に相馬藩、伊達市、青森、三春、他
伊達の名に岡山池田の血統が入って、南部伯爵家とか言ってこれも岡山池田方面の顔 白黒写真時代だ。


山形盆地の中東部、独立丘の舞鶴山に築かれ、別名舞鶴城、天童古城。東西1000メートル、南北1200メートルの範囲に及ぶ村山地方最大の山城。また、標高231.8メートルの山頂部に主郭を置き、現在は愛宕神社が建つ。この下には、帯曲輪が巡り、要所には幾重にも段状の曲輪が連なる[1]。城跡の大部分は天童市舞鶴山公園となっている。なお、天童織田氏の城館は区別して天童織田館と呼ばれる[2]。  
 天保元年(1830年)天童藩主・織田氏が入り 





山形ダメだね あと伊達市
立子山の玉野式部の墓石は撤去願う そこで死んでいないから
立子山の松尾が霊山記略で家司方になってたが捏造だ 解任する 何度も出す
日蓮寺の顕成の墓石も撤去願う

家司方 長井斎藤別当眞永 出羽長井城主とは最上の多重IDだ 解任する
最上 伊達宗遠の関係者 梁川が該当 織田と抱き合ってる梁川・最上・伊達
家司だったと嘘ついてるようにも見える これほどまでうちの事に介入し
何も知らんぷりで今まできてたのはミサイルぶちこんでやるレベル

家司黒澤土佐守行綱 安達郡木幡城主って存在してないでしょ
木幡はメトロパチンコ 黒澤は歯医者であった 相馬側の連中の売名連名❓
家司懸田治郎大輔定元 懸田城主 顕成は鹿島に行ってないと嘘原稿を桑折と組んで出してる 当然解任

解任
奉行方佐藤民部大輔忠俊 信夫郡中野 大鳥城主 
奉行伊賀良目式部三郎盛光 信夫郡伊賀良目城主👈宇津峯奇襲者が奉行❓
奉行木下六郎左衛門尉友行 宇多郡日下石城主👈唯野か小丸か荒かこれも嘘
奉行藤田左衛門尉弘門 伊達郡藤田城主👈相馬〇胤の1人 拒否します


あたしの金欠眺めてるだけで 何十年も監視監督やれる身分だと思い込んでる警察や行政機関

パソコンデータが凄まじいの想像つくだろう
携帯もだ
金のかかる事を 知らんぷりしてゴミのような人殺し達

賢い人なら、さっきあげた画像で納得するはずだ あたしが本物だって。
いつの時代の事言ってるのか親戚ぶった言い回しで親ぶって管理者のつもりでいる畜生達と縁切りをすると言ってるんだ 自分が。

なぜ 青森 秋田の一部の事がわかるかって 仕事でそこのエリアの受注してたんだ昔。 なぜ そこのエリアに行くようになってたか理由はコレだ。

問題起こして 苦情言って辞めた従業員らが いかにもあたしの従業員ぶってるかもしれないが 一斉に縁切りだ。
こいつらの行く先は 相馬〇胤 北畠顕信の方面なんだから。
その方向に 天皇家とかいうでっち上げ貴族集団と税金使い込み集団がいる。

昔 200万はかかるだろう鯵ヶ沢の橋梁工事を25~35万前後でやってる。
こんな法定違反行為がまかりとおってた。
この仕事を亘理仙台の業者がやってた。名は一応伏せるが。

五所川原の名も好きじゃなかった 直感でだ。
御所川原という意味で 本当は川原御所だったんだな。
元従業員に五所川原に親戚がいる というヤツがいた。ああ名前出そうだ。
清野好見 新地町 とてつもない負債作ってトンズラしさらに引き抜き
山王OB会みたいな事をやってた犯罪者達は全部 相馬糞胤側の資金援助されてた。清野好見は日立セメントの煙突工事をぶん投げて辞職したカス。
酒乱で事故癖も多かったで有名。嫁の家が森。

とてつもない負債を作って押し付け ああ顕信方面って相馬秀胤なんだな。
織田信恒なんて名で。


どれだけあたしが仕事できるか ゼネコンで有名だったと思うが。
大手のたたき上げだから自分。

相当前に秋田の北の方 気になるって書いてたと思うが、長慶平って場所が
あった。ちゃんと合ってる。

長慶天皇を とことん隠して背乗りしてきたんだな 織田信雄と森可成。
さっきあげた図 「具」の文字入ってるヤツが殺害されたってあった。

「具」の文字は霊山記略 具平親王の子で出てくる※親が村上天皇
①正教(塚野国御屋形)国見の藤田のあたり この子孫にいる
②具行 鎌倉で掴まって死んだ👈これ 護良親王の事では?
③具氏 詳細ナシ


一条天皇役
丸森と梁川と京都にいる 名前だけで上級国民って特別待遇だね
天童丸の宣伝を相馬藩士畠中正一らが集団でやりだして、あげくに天童丸は
ここで母親の松代と死んだのよって、稚児石なる物まで作って捏造してたんだ
が、人殺し達のやる事の畜生っぷり わかるかな?

天童丸なんて顕家の子にいないわ💢とブチギレてたら、ある時 山寺に天童丸の墓があるという某ブログを見つけ、わざわざガソリンと高速代使って探しに行った。山寺の中をぐるぐる回って、見つからない。あったのは清和天皇という墓石と、松尾芭蕉+曽良の像。
ブチギレて、その場で携帯から記事探したら見つからない。
発狂したよね。
その後、北畠神社なる場所が近くにあるようだからまわって確認した。
いかにも捏造で建てたような感じがして、天童市の端っこにある。
どうやら祭神が顕信と親房になってた。その頃に、ほら見ろ!顕信じゃないか💢と騒いでる。

10年以上かけて 顕家の孫 長慶天皇が天童丸と呼ばれてた事に気づいた。
天童市は天童の名を変えるべきだ。

天童山と言われた青森鯵ヶ沢が本当にふさわしいような気がする。
そこを第一期建築したのが在任中の時だったんだ そこに舞鶴の名が出てれば
京都から出てる。つまり、天童市で舞鶴の名を使うのもダメだという事だ。
全部パクリじゃないか。

天童の意味は天子の意味で使われて、天王と言われたのは長慶が最初だったんじゃないの?
鯵ヶ沢城作るにあたって 当時の津軽に世話になったのは推測できる。
しかし、俺が子だ 俺だと言い合って過去帖使った成りすましされたら
誰だって 子孫はもうそれにたどり着かない。

俺も南部 俺も南部と言い合って どういう訳か家紋に九曜が入っている。
うちで九曜使うか? 使ったか? 使ってないと思うが。

相馬糞胤に変えられて、相馬糞と伊達側が相当な金を使いこんだ。
二度とこういう事は嫌だ。
あたしになんて生活させてきてるんだ?


直感だけど 相馬利胤とは南部方面から入ってるように思う。
南部方面に「利」の文字が見える。

安倍晋三は あたしが必要な情報を隠ぺいしてた集団に国費を与えていた。
推測の域だけど、下閉伊郡うんたらの住所がどこかにあった。
これは今度、南部の先に 麻生太郎の嫁の実家 鈴木善幸のヤツではないの?
鈴木善幸の売名で作ったと思われるページを編集して出す





それ以外に田中直紀の父とされる 糞田舎から出現した鈴木直人というヤツ
もともと相馬の人間ではない
某者が調べて銅像画をUPしてくれてたおかげで ようやくわかった鈴木直人の顔 この顔は佐藤栄作の顔だ
鈴木直人の名が磯部にありません 住宅地図上、世帯主であったなら残ってたはずなのに。それどころか、鹿島町の住宅地図に鈴木直人の名がある。
鹿島の旧家の前にあった「いろはや」という肥料屋?が鈴木の名字だった。
でもそこに、名はなく、別の場所に「いろはや商店」で「鈴木直人」の名があった。



それよりも 「康熙帝(こうきてい)」は、清の第4代皇帝。これ うちかもしれない。 

北畠顕家の孫が熙成 青森沿岸部 シベリア往来可能 シベリア薬草調達
うちで出来た。福島県の霊山城近辺で薬草が昔から採れたのではなく、シベリアから苗を持ってきて植えた 薬草学をうちで持ってた。

北朝鮮カリアゲモンゴルは大日本帝国の日本人(朝鮮人)
安東(安藤)が北畠顕家の娘をもらったんだ💢と騒いでたのは世界にぶちまけてたハッタリ
翻訳して世界に流そうか 金を吸い上げる 元身内あるいは元親だ 親戚だとわめく強盗朝鮮人警察


つまり北畠顕信の子方面と 顕家の娘もらったんだ!という連中は同じ
村上 朝鮮住吉会の連中 今準備する 相馬〇胤役やってた武石が国分正男だって よしお叔父殺したのはコイツらだって ロシアのボトル二コフ
いい加減 金なくて発狂越えてるんだが ロシアでなくモスクワの集団が北朝鮮使ってきたんだ そこの上にいるのが英仏ロスチャイルドだ
スペインのハプスブルク家だのオランダ王室だの国連だのかたって
そこに相当なドイツ系が混在してる

ソ連が日本なんだ わかるだろ? ソ連のイギリスが相馬〇胤役を朝鮮ゴミにやらせてきたんだ




伊達と相馬の苗字使った多重名義スパイ武士の糞たる山 インチキ出目と時代背景 上級国民は身元を捏造で作っています

2023-10-05 01:08:48 | 日記
住吉会の国分 市川市ヤクザが出目捏造  相馬常胤と武石〇〇役が国分一家

👇国分正男稲川会絋龍一家 とは郡山だ まさしく条件合致の神奈川と国分
国分正男のたぶん兄弟か親戚 安達郡本宮町 国分一男
持田二郎の新宿利権は大阪市の才賀と一緒 才賀清二郎新宿区若松15-11
才賀清二郎が大阪ヤクザ 才賀組のトップ

やっぱり 持田二郎ストーカーはこの関係 
後醍醐天皇側の役 つまり村上と醍醐の連中は、一条と二重に名義を使いあって、さらに千葉と伊達の名を使ってこれも兼用名義にしてる
久我常通遺族と、国分正夫は一緒の行動 久我常通遺族と一条遺族は一緒の行動
国分が武石の名を使って入り込んでた 武石が千葉だって書かれてたのはもともと市川市を出目にしてたんだ 国分=武石=相馬=伊達=桑折=石川

久我は村上で、自称後醍醐天皇の皇子かつ後村上天皇の皇子
住吉会醍醐正夫(後醍醐天皇の役存在) 
稲川会絋龍一家舎弟国分正男(武石と亘理の役存在)  

それを一条が息子入れて久我という存在を作り出し久我村上を正当化してる
久我常通 久我通建 久我常顕 公卿のつもり中国人関東軍 これで南朝を演出し、北朝の相馬〇胤を演じて武石=国分 相馬=伊達みたいな共益を作ってその組織の上に 自分達の代表(皇族)という存在を作り出したんだ
一条は丸森町議員 あと梁川 丸森町議員に保科 保科は会津藩初代藩主
保科の枝に西郷逸郎 福島市の西郷眼科 
この兄弟だろう相馬市にも西郷眼科があった 西郷眼科相馬市中村一丁目5-10
娘の名はタマミS46 福島市西郷は保科だとよしあき手帳に残ってる

丸森町に会津藩初代藩主の名が議員として存在してた 保科



①千葉常胤と秩父の名でアキヒト犯罪者集団が捏造👇とわかる
5男なんて誰も証明できない 人間寄せ集め、お前が弟・俺兄貴・あっちは俺の兄貴!ってやってるカスが自称兄弟を作って戸籍まででっち上げてた
国分 胤通(こくぶ たねみち、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士千葉常胤の5男。母は秩父重弘の娘。通称・五郎左衛門尉。胤道と記す文献もある。下総国分氏の祖
経歴[編集]
下総国葛飾国分郷(現在の千葉県市川市国分)に居住していたことから、「国分」を称したが、後に香取郡矢作郷(香取市本矢作)に拠点を移している。

秩父が高松(懸田・伊達・相馬)義宗とくっつき出した場所は大河原の小山田地域 時期が相馬顕胤とねつ造されてる1542年から数十年前。ー武蔵武士大河原時基が鎌倉時代末の嘉暦四年(一三二九)ー の血統が、なぜ1500年代一時的に宮城県大河原に来てたのか
懸田・蘆名・伊達・梁川・桑折・高松等は複数で苗字や名に関係性を持ってた
仮で出すと1500-1592  ここに天神堂の僧という存在があって、天神堂の僧は相馬顕胤の親族だと森鎮雄の本に書かせたのは桑折・国分側。
他所で大河原と調べたら埼玉県が出てくる謎現象を疑っていないか?
原因は、大河原=小山田=秩父が1588年小山田頼定(懸田顕定と身内?)討ち死にして埼玉に逃れてる、もしくは戻っている。 
埼玉のほうに大河原うんたらが出るのは、ここから逃れた連中と思われる。顕胤の親族と決めつけられてた存在が大河原の小山田城のそば、そこに天神堂という地域がある。新潟にも天神堂古墳というものが出てくるが、状況照合上は、桑折の言い分的にも大河原の小山田と、天神堂。
伊達政宗家臣小山田筑前守頼定=懸田・伊達・桑折 ・高松の親類
大崎出陣で中新田城戦の時、敗軍し殺害されている(討死とされてるが)
http://www13.plala.or.jp/sakushiro/oshiro/oshiro_kaisetsu/miyagi/t_ogw.html←保護されてないサイトの記者に良心があるように思う

*発狂してきた北畠顕家の子が天童丸だという捏造に伊達一門が直接関係してた
桑折と伊達政宗側だった 大崎氏とされてる斯波と桑折と亘理が作り出した
天童という存在 伊達臣下だとさ 
最上頼直=天童頼直で天童氏の始まり

天 童 家 文 書 ⅡのP48・P49に系譜が出てる 国分・亘理・伊達

系譜の最初が最上直家の息子頼直と、六角の娘
全国遺跡報告総覧https://sitereports.nabunken.go.jp › files › attach
仙台藩天童家の複雑な継承と諸家との続柄を理解・把握するために. 史料. 13のように、天童家に繋がる伊達本家及びその家臣の複雑な人. 間関係を並列して整理する必要が ...
北畠顕家の子が天童丸?どういう事?

宮城県大河原町史が詳細不明なのは、全部伊達一派の都合改ざんがあって、不利情報を出すと干されるか厳罰でもあったから。この伊達とは石川、桑折、その上が晴宗、植宗

②ウィキに書いてるのにリンクさせてない犯罪者 国分 住吉会
暇な人試してみてほしい この記事のURLにアンダーバーが付かない
リンクで飛ばない記事だ

国分氏(こくぶんうじ、こくぶんし)は、南北朝時代から戦国時代の末まで陸奥国の陸奥国分寺付近から宮城郡南部に勢力を張った武士(国衆)の一族である。戦国時代末に伊達氏から当主として国分盛重を迎えて伊達氏に臣従することとなったが、慶長元年(1596年)に伊達政宗の不興を買い、大名としての国分氏は滅んだ。※伊達から当主として国分盛重を迎えたなら、伊達盛重が本名
で亘理重宗と名義分けしてたヤツ
概要[編集]
江戸時代の系図によれば国分胤通が鎌倉時代に宮城郡国分荘を領したのが初めだが、藤原北家秀郷流長沼氏一族の僧が婿に入って創始したとの伝えもあり、正確なところは不明である。※伊達から盛重を入れたなら伊達で証明できるはずだ しかしこの内容は伊達側で証明できていないし、デタラメもってきてる
仙台藩主の後裔自称する連中はインチキだから、これも証明できない
国分の苗字は、霊山記略にない1300年代いない 
霊山記略P113  1335年国府武石胤顕をして安達郡木幡城の北条残党を誅せむ
1335年に安達郡を襲撃できる?どこの拠点にいたかも全然記録ナシの武石
仙台の国分寺にいたと言い出してる、調べたら若林区の真言宗寺になってた
731年に伊達正宗なんていない だから建立も伊達ではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E6%B0%8F_(%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9B%BD)#:~:text=%E5%9B%BD%E5%88%86%E6%B0%8F%EF%BC%88%E3%81%93%E3%81%8F%E3%81%B6%E3%82%93%E3%81%86%E3%81%98,%E5%9B%BD%E5%88%86%E6%B0%8F%E3%81%AF%E6%BB%85%E3%82%93%E3%81%A0%E3%80%82

霊山記略P117  石川光春、子貞光等菊田庄、三箱、湯本の諸城を攻める。
相馬胤平撃て之を退ける←これが武石のつもり?胤平親王は桓武カンム天皇の後裔だと言って、相馬利胤がタンカ切ったと森の本にあるが胤平親王なんて認知されていない。武石と亘理と国分をまたいでる仙南の相馬が伊達の連中でもある。
武石役を原町の国分兄弟がやってた 
亘理に香取神社あったから不思議だなと思ったらこういう事を作る為か
亘理に存在してたと言うなら香取神社の場所が国分・武石の住処だ
住所は角田市になってるな 石川、石川と混ざった伊達崎桑折とグループだ。
香取神社〒981-1502宮城県角田市尾山引田44-1
石川建設〒981-1505宮城県角田市角田牛館181 
原町に石川建設あるじゃないか 仙台講習会で騒いだあの畜生
石川建設工業〒975-0001福島県南相馬市原町区大町3-30
石川林業建設〒975-0004福島県南相馬市原町区旭町3-20
「ZENPOが!小坂が!」騒いでた原町の石川は角田の石川と、丸森の石川組と遠戚
小坂宣彰がこれほどのガンだったのは原釜出身がみんな住吉会の関係者だから
持田二郎が最初に手を付けた軽油泥棒従業員
ZENPOの親は、画像上の持田二郎 新宿・市川・満州 
持田二郎が出資してるもう1つは日通自動車=原町建設機械 遠藤修
持田二郎が出資に関係してるもう1つは電材 上村
株式会社電材ホールディングスは北海道室蘭市に本社を置く国内2位のクレーン 
住吉会に小坂って苗字もあった 角田の香取神社を千葉国分に見立てたら、石川姓、小坂姓 見事に住吉会だわ

国分が武石の名使ってる 国分が自称相馬師常の弟武石胤盛の子孫で相馬顕胤と親戚?みたいな事流布してたのか。武石なんて苗字は相馬藩にない。
そう言える根拠 ①青田の奴らが昔うちと親戚だったような言い草を流布してた、見てる当家文献に青田の名なんてないから、このセリフを伊達か相馬のヤツが流布②うちで昔亘理まで土地があったと言われてる。この土地所有に関しての文献が一切奪われてるなら伊達と相馬 仙南の伊達のほうが窃盗し隠してた。青田と水谷が一時期亘理城主をしてた?顕胤に指示されて?亘理元宗(父:植宗)は「懸田義宗=伊達義宗」と叔父 甥関係で相馬義胤?国分一家がストーカーで人殺しなのはよくわかった
よしお叔父殺したのも国分たち よしお叔父の名刺に千葉と市川の住所がある
よしお叔父がなぜ「千葉工業」相談役とされた?何だ コレ
こういうやつらが利用し続け追っかけるし警察や病院や役所がこういう人殺し達に教えてる 国分兄弟は血が繋がっていない 国分正男のほうが悪質 相馬糞胤の出目武石に
国分が演じてた これを支援操作してたのは三春町の国分と郡山
青田姓は住吉会の青田組の連中だ


国分 胤通 香取郡矢作郷(香取市本矢作)に拠点を移している。
3639_6_天童家文書Ⅱ (1).pdfのP48  
⑩天童頼定(貞)の妻国分盛氏の娘
⑫天童重頼の妻桑折政長の娘 慶長16(1611)年
留守政景二男、天童頼澄(父:天童頼定母細川直重)に子がいなくて天童氏を継ぐ
※留守政景は伊達晴宗の二男←いや桑折 桑折 景長(こおり かげなが )の延長でないと、景の字はこない 桑折か長尾(上杉)しか景の字はこない

◎相馬盛胤は本名でなく、梁川と芦名が盛の役になってる計算
+武石と亘理+国分
〇亘理城主 郡主の候補者名 亘理(武石・国分・相馬)胤盛  
亘理讃岐(香川の真言宗が亘理のバックで、仙台国分寺を国分の出目に捏造してた?若林区の真言宗寺院使ってさ) 
若林姓があるか不明だが、これが蒲生と一緒 兼用されてる
なぜ?仙台市若林区に蒲生という地域がある
※相馬盛胤は胤盛と字を前後入れ替えただけ

◎相馬盛胤ー子に相馬顕胤ーその子に相馬盛胤とP22にあるが捏造

それが顕家の子孫の親ズラして息子と流布してる間、伊達側と芦名側に相当な金と人間が流れてる こんな嘘吐き戸籍捏造あり得ない
梁川城の築城は1500年で顕胤が相馬藩主とねつ造されてた時期に作られてる
梁川城の築城費はうちが出してる計算
同じく相馬市北町の中村・馬陵城の築城も同時期で相馬と伊達(梁川)が混在して築城なら 金と人はこいつらが勝手に使ってた計算

他人がそこに入って、自分戸籍をそこから作ったり経歴かぶるなんてもっての外 中村・馬陵城の築城は1500年代でその時の領主は顕家の子孫であり
名を奪って 相馬顕胤と改ざんし、相馬糞一門として仙台市にまでうちの金を使いこんでたゲス外道

森鎮雄の本に相馬盛胤の時、仙台北目町までの遠征もあったように記載されてる。北目町とは河北新報や郵便局警察署 いわゆる仙台の中心が最初作られたのは北目町のほうだ あそこに相馬盛胤らが遠征してたというなら、相馬盛胤とは蘆名・梁川らであって、顕家の子を自分の息子のように改ざんし、その地位使って伊達政宗と称するヤツが黒木や桑折、亘理や総勢を傘下にし出した時期と重なる。伊達政宗がうちの金と権限も使いこんだ。この伊達政宗とは、本名伊達政宗であっても、米沢に行ってた伊達晴宗の息子だ。仙台住人ならわかるだろうが、伊達家の墓地と称した廟がなぜ北目町の方面にあると思う❓
伊達家墓ー五橋ー北目町だ。距離2.9kmしかない。

森鎮雄の本P28北の目攻略 名取郡にいた北の目氏に亘理元安斎が二男を養子にしようとしたが、北の目は約束に背いた。それで亘理が相馬盛胤に頼んで加勢を依頼、薬師の難所(仙台川・名取川・座流川・三川の落ち合う場所)に陣を張り、対する亘理側が亘理重宗、岩沼城主泉田、角田城主瀬の上等が攻め、養子約束を取り付けた。この時伊達(亘理)重宗は相馬盛胤、相馬義胤に加勢を依頼。永禄6(1563)年という事は、相馬顕胤という存在が1542年にあった時代になぜ名が出ない❓北目町の元となった人名、個人は名取郡にいたという事だ。それが亘理と子供養子戦略をはかり、拒否られて相馬義胤と盛胤に依頼。
戦しかけて取り付けた。ヤクザ抗争と同じ。伊東康夫の水墨画にあるように、1542年以前に領主は盛胤から顕胤に変わっているんだぞ?(顕胤の父が盛胤で顕胤の子が盛胤で、その子が義胤とねつ造されてる)顕胤の息子盛胤は・・・という記事にされていないんだ。
この永禄6(1563)年というのは、21年後であって、顕胤が死んだとか死んだから息子の盛胤が今度領主になったとか、一切の記載がないんだ。

伊達家の墓という太伯区のあの場所に相当陣屋を張って、その近くに北目を置いてたから地名に残ってる。いつから?と言えば、この頃あたりからだ。
この時亘理重宗が北の目に取り付けた養子策が、田村清顕と伊達輝宗死亡でさらに有効にされた・亘理重宗は国分と一緒だ。これらが相馬〇胤と名義共有やってたんだ。
1521-1528年の間に亘理郡主の武石の嫡子武石讃岐が相馬北原に住み着いたP24
亘理郡主相馬師常の弟武石三郎胤盛の子孫父が病死したから武石讃岐が相馬領に来て北原にいたそれで顕胤は青田左衛門と水谷伊予を遣わして亘理城を守らせたが、亘理の臣大平主膳と伊達三郎等が謀叛を企て伊達晴宗の属下になった為、それ以降伊達領となったP25


【赤松】   常盤城の城代熊谷家5代まで。その後赤松円心入道則村の孫
       越前守顕則。姓を常盤と改め甲斐守貞久まで在城
       甲斐守貞久は田村清顕の逆麟に触れ、城主を追われた
       石沢修理亮が城主を命じられたが、相馬・岩城の攻略で
       天正17(1589)年落城
       赤松が自称村上源氏 有馬がこの派生だと捏造



【田村庄司】 田村庄司河村六郎宗季1340年 P124
                         顕季の名が出てる霊略1352年 P130
田村】   田村清顕 天正14(1586)年逝去
       田村清顕には後妻がいて、これが小野町へ転居
       田村宮内顕康 天正18(1590)年大越城主に入る※後妻の子?
  
【蒲生】     蒲生氏の城代 小倉作左衛門 南会津郡田島 鴫山城
       城郭資料P
                        貞成親王の子 小倉宮と流れてる根拠はもしかしてコレ?
         蒲生氏郷・氏安親子が豊臣秀吉傘下で田中城城主を捏造して
         た時期あり  石田三成常駐する直前
     

【慶徳】   天正年間(1573-1592)蘆名の臣、慶徳善五郎が慶徳城城主。
                         1538年には城下含め黒川大火 経徳新左衛門の名あり
       1560年佐竹・田村清顕連合と慶徳善五郎盛勝が活躍
       1590年伊達政宗は慶徳因幡に知行を預けている
       ー福島中世城郭資料P176ー

【西海枝】  喜多方市慶徳町新宮字熊野の「駿河館」1563年当たりには
       熊野神社の守護を解任されてる風だ
       蘆名従属臣 駿河館建築は西海枝駿河守ではないか?と
       言われている
                         ー福島中世城郭資料P181ー

【高松】     高松近江守源定隆 正中2(1325)年 福島市岡本城に居住
       高松は定住の間、懸田氏を称した
       後に伊達家臣岡本吉太夫が居住し岡本城と云われ
       近くの文知摺城には信夫伊賀守照成が居住したと言われる
       時期不明 城郭資料P37 新宮伊賀と繋がる 
                         霊山記略 正5位北畠左衛門佐源定永  霊山御所附P75

1300年代:南北朝廷戦争 常陸介念西朝宗こと初代伊達政宗
この時国道399路線遠征してる 二階堂行朝という名が書面で出てる 
初代伊達政宗の伊達行朝と同じ名 これも替え玉疑惑あり


1500年代:伊達晴宗の息子 米沢城生まれ伊達政宗 遠征
田村清顕や浅野長政と犬猿
田村清顕暗殺疑惑あり 田村清顕はこれで没し別の田村が君臨
2代目伊達政宗が相馬顕胤とねつ造された親成?の時期 1500年前後







「中村六郎は白川結城の代官」は捏造 「真野五郎は桑折一族で顕家の一族」も捏造 「北畠顕家の上司は義良でなく後醍醐」が正解 相馬親胤は結城親朝 相馬光胤は黒木正光

2023-10-03 04:13:16 | 日記

なんせ 膨大な資料を漁っていて とても大変だがその分怒りはとてつもない
顕信と一緒にされても困るから 顕信役やってるヤツは相馬秀胤の名で
別名 織田信恒と言ってるから、ここに織田信雄と伊勢がウジャウジャと
ついてまわる ここに宋 中華勢がいる あと扶余と言ってる韓国人

浪岡吉左衛門のほうが、顕信の子と混在させられてる
書いてた事が当たってる 織田信雄と田丸
親成はこれで殺されてはいない
天正4年(1576年)11月には、信長の意向を受けた信雄の命により、長野具藤・北畠親成ら北畠一門の主だった者を田丸城に招き寄せ、殺害している 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%B8%E7%9B%B4%E6%98%8C

多田野吉左衛門のほうが、結城(茨城・白河・会津)・千葉(相馬)に混在させられてると思う 
結城顕朝だの 相馬顕胤だの 田村顕季だの

相馬の役をしてるのは藩主でなく昔の領主みたいな連中
 
おかしな事に小高城主の記載がまったくない相馬略史 森鎮雄の本
藩主史を掲げるなら小高城でこうでああで、、自慢気に書いてあるでしょ 普通 
ざっと見直しして相馬利胤が小高城から中村城に移ったという記事と、小高城で相馬一族郎党死亡の記事くらい
【小高城主やってただろう人】 相馬親胤(結城親朝) 相馬光胤(黒木正光) 
相馬長胤(?) 相馬重胤(福岡重信) 相馬利胤(?)👈利胤から相馬中村城に移動

小高が本体なクセに小高城主〇代目記載がまったくない
そのくせに小高の同慶寺へ歴代藩主と言い墓をいくつも建設
前に書いてる通りにあれはうちの墓より新しい
作り直したなんて誰でも言える簡単な屁理屈
拷問と虐待と窃盗と横領を何百年もやるタカリ

黒木城主で記載ある苗字(相馬市黒木)
①黒木←自称北畠顕家の子で戸籍 小高で中村六郎広重と黒木六郎を混在
②青田←自称昔は親戚だったのよ 黒木城代に名が出てる初代原町市長と住吉
③門馬←黒木城代で名前出してる メトロパチンコ原町経営者と市長関連
➃藤田と黒木の子 黒木中務が黒木城代で名前出ている 
 黒木+藤田息子が城代 藤田はそもそも石川郡から国見に流れた藤田
 藤田は相馬藩主側で国見側の城主側でかつ伊達姓も使ってた

中村・馬陵城 (黒木が中村と混姓)
①築城が1500年代で、それ以前に城はない 相馬藩証言がどれも嘘
相馬利胤が築城者は間違い
②相馬氏(誰?)が草野(中村)直清を城代にしたが謀叛企て討伐される
相馬隆胤(城主義胤の弟)が城主になり引退した盛胤が後見も、駒ケ嶺奪還で討ち死にし、以後盛胤が城代役P235引退した盛胤とは顕胤の父親で?以後城代役の盛胤が顕胤の子?どこのストーカー役人らがこんな悪用してるわけ?
相馬利胤は小高城にいた岡田義胤の子らしいが建造は小高関係ないでしょ
◎相馬盛胤は本名でなく、梁川と芦名が盛の役になってる計算
◎相馬盛胤ー子に相馬顕胤ーその子に相馬盛胤とP22にあるが捏造
それが顕家の子孫の親ズラして息子と流布してる間、伊達側と芦名側に相当な金と人間が流れてる こんな嘘吐き戸籍捏造あり得ない
梁川城の築城は1500年で顕胤が相馬藩主とねつ造されてた時期に作られてる
梁川城の築城費はうちが出してる計算
同じく相馬市北町の中村・馬陵城の築城も同時期で相馬と伊達(梁川)が混在して築城なら 金と人はこいつらが勝手に使ってた計算

1000トン位のウエイト使って、皆破壊する話
他人がそこに入って 自分戸籍をそこから作ったり経歴かぶるなんてもっての外 中村・馬陵城の築城は1500年代でその時の領主は顕家の子孫であり
名を奪って 相馬顕胤と改ざんし、相馬糞一門として仙台市にまでうちの金を使いこんでたゲス外道
森鎮雄の本に相馬盛胤の時、仙台北目町までの遠征もあったように記載されてる。北目町とは河北新報や郵便局警察署 いわゆる仙台の中心が最初作られたのは北目町のほうだ あそこに相馬盛胤らが遠征してたというなら、相馬盛胤とは蘆名・梁川らであって、顕家の子を自分の息子のように改ざんし、その地位使って伊達政宗と称するヤツが黒木や桑折、亘理や総勢を傘下にし出した時期と重なる。伊達政宗がうちの金と権限も使いこんだ。この伊達政宗とは、本名伊達政宗であっても、米沢に行ってた伊達晴宗の息子だ。仙台住人ならわかるだろうが、伊達家の墓地と称した廟がなぜ北目町の方面にあると思う❓
伊達家墓ー五橋ー北目町だ。距離2.9kmしかない。

森鎮雄の本P28北の目攻略 名取郡にいた北の目氏に亘理元安斎が二男を養子にしようとしたが、北の目は約束に背いた。それで亘理が相馬盛胤に頼んで加勢を依頼、薬師の難所(仙台川・名取川・座流川・三川の落ち合う場所)に陣を張り、対する亘理側が亘理重宗、岩沼城主泉田、角田城主瀬の上等が攻め、養子約束を取り付けた。この時伊達(亘理)重宗は相馬盛胤、相馬義胤に加勢を依頼。永禄6(1563)年という事は、相馬顕胤という存在が1542年にあった時代になぜ名が出ない❓北目町の元となった人名、個人は名取郡にいたという事だ。それが亘理と子供養子戦略をはかり、拒否られて相馬義胤と盛胤に依頼。
戦しかけて取り付けた。ヤクザ抗争と同じ。伊東康夫の水墨画にあるように、1542年以前に領主は盛胤から顕胤に変わっているんだぞ?(顕胤の父が盛胤で顕胤の子が盛胤で、その子が義胤とねつ造されてる)顕胤の息子盛胤は・・・という記事にされていないんだ。
この永禄6(1563)年というのは、21年後であって、顕胤が死んだとか死んだから息子の盛胤が今度領主になったとか、一切の記載がないんだ。

伊達家の墓という太伯区のあの場所に相当陣屋を張って、その近くに北目を置いてたから地名に残ってる。いつから?と言えば、この頃あたりからだ。
この時亘理重宗が北の目に取り付けた養子策が、田村清顕と伊達輝宗死亡でさらに有効にされた・亘理重宗は国分と一緒だ。これらが相馬〇胤と名義共有やってたんだ。
1521-1528年の間に亘理郡主の武石の嫡子武石讃岐が相馬北原に住み着いたP24
亘理郡主相馬師常の弟武石三郎胤盛の子孫父が病死したから武石讃岐が相馬領に来て北原にいたそれで顕胤は青田左衛門と水谷伊予を遣わして亘理城を守らせたが、亘理の臣大平主膳と伊達三郎等が謀叛を企て伊達晴宗の属下になった為、それ以降伊達領となったP25

〇亘理城主 郡主の候補者名 亘理胤盛 武石胤盛 亘理讃岐 相馬胤盛
相馬盛胤





浪江・幾世橋 館
①幾世橋←標葉を幾世橋と言い出したのは相馬昌胤と文献に残ってる
     相馬昌胤は誰! 田丸直の可能性あり
     田丸直昌の主君「北畠具房」は自称北畠の三重伊勢関係
     三重伊勢国司を自称してる織田信雄の外野は顕信の子を詐称してた
     だけで、大本が空白だから全部集団犯罪で出目を繕ってた自称公卿
     1547年北畠具教の息子で生まれた北畠具房とは霊山記略に名ナシ
霊山記略は編集に関西公卿・武家総勢で自分のアピ原稿を投稿し編集されてるだけでなく福岡方面の名も出てる通り全国版で編集されてる
ここに名がないのはこの組織から存在を認められてなかったヤツ

②岡田
駒ケ嶺城主
①黒木
鹿島田中館
①桑折・郡
②蒲生

霊山記略にある賊将名称※記載側都合書記 
近くにいる苗字は〇 28分の19  約3分の2いる計算
〇【相馬光胤】
〇【相馬長胤】
〇【相馬成胤】
〇【相馬親胤】
〇【相馬重胤】
〇【相馬胤治】
〇【相馬胤俊】
✕【宇都宮綱世】宇都宮直綱 帰順す
✕【中賀野義長】
✕【斯波家長】
✕【高師直】
〇【桃井直常】
✕【島津貞久】
〇【伊賀盛光】
〇【吉良貞家】
〇【結城親朝】
〇【結城朝常】
〇【石川兼光】
✕【國隆孝】
✕【土岐頼遠】
〇【細川氏春】
✕【今川貞世】
〇【山名氏清】
〇【畠山基國】
〇【小川】
〇【田村】
〇【安達】
✕【北条英時】×菊池武時

⊶親王と天皇⊶
△仁は伏見・平安京派
〇良は醍醐・村上派

△量仁親王(光厳(院)天皇)後伏見天皇の皇子 北条高時1331年天皇とさす
△豊仁親王

◎後醍醐天皇即位中 /後宇多天皇法皇院政1317~1321年崩御の時1324年58歳
霊山記略に後村上天皇(義良親王)の前が後醍醐天皇になってるが父は護良
※義良親王(後村上)と尊良親王は吉野行宮1338年1月 
3月に顕家21歳は和泉へ出発5月死亡
※義良親王(後村上)10歳と北畠顕信1338年5月18歳伊勢に向かう

〇邦良親王 後醍醐天皇の皇太子(後二条天皇の皇子が養子?)立太子1317年
〇世良親王 1330年逝去、北畠親房が仕えた
〇護良親王(尊雲法親王)天台宗座主2ケ月 28歳で刺され死ぬ 霊山記略P109
◎義良親王(後村上天皇) 護良親王の息子 
〇尊良親王 土佐に流される 自盡する 自殺?
〇尊澄親王 讃岐に流される
〇静尊親王 但馬に流される 
〇恒良親王 擒われる 囚われる? 立太子1334年10歳
〇成良親王 足利直義が奉り伊豆・相模・武蔵・上総・下総を鎮す
〇宗良親王
〇陸良親王 護良親王の皇子
〇守永親王
〇興良親王

◎熙成親王 長慶天皇  顕成の子
◎貞成親王 後亀山天皇 顕成の孫

北畠顕能は親王ではない 北畠顕信の子守親の子が顕能 顕信にしたら孫
貞成親王の子は小倉宮とウィキに出てる
これは顕能が九州筑紫で死んでるから、これから出てると思われ、そうなると
小倉宮を称する連中は、顕信の子のほうなんだよね
死ぬ前に現地で浮気した 女がいた前提にし、そこで出会ってるような空想をさせて、この空想できる部分で、そこで子が出来たように作るんだ
こういう人達

当初 田村庄司が大阪の陣まで出向き、顕家が死んだ通達でた後に、急に大阪方面から田村の姓に、顕という文字を入れた人物が浮上した
これが田村盛顕?

1366年 高麗人多数来朝 帰化永住を許される


【桑折】   桑折は懸田・伊達・郡・伊達崎・相馬・幾世橋・梁川を乱用
       名前に「家」が入ってる 北畠顕家の成りすまし
       名前に「左衛門」が入ってる 吉左衛門の子の成りすまし 
       1602年三春城代蒲生源左衛門の名ありP44
       
       桑折源左衛門の名が墓地登記者に出ていた
       桑折が真野五郎を称し続けた原因は顕成と松代が霊山脱出の時
       避難先になってたからだ 真野長者が元々桑折ではなく、
       桑折側が五郎の名を口にするのは真野長者の当時の主が真野
       五郎。桑折が真野五郎を継いだと言い出した時期は真野長者
       の農民が戦死した後。この時真野家を継いでもいないし田中
       城にいたのは顕家の子孫で桑折側ではこの人物を顕家の子式
       部少輔だと原稿に出している。これが真野長者・田中城
       (館主)、この時田中城に天神堂の親族などいない
       その時桑折(郡)がいた場所は右田浜の桑折上野の館だ
       この田中城戦の時から桑折が郡と使い出してる
       

                         吉良貞家と混ざってる可能性あり城郭資料P99
                 桑折〇家の名が複数出されてる
       北畠顕家の家からきてると思ったが吉良貞家の家も怪しい
       吉良貞家が相馬に逃れて加勢を相馬親胤(結城親朝)に煽る
       結城の庶子黒木が熊野堂城築城とされてるが、当時結城(黒木)
       は北畠顕家の配下ではなく相馬親胤そのもの
       だから結城宗広代官と出されてる。相馬一族が下向したメンツ
       に相馬親胤の名はない(森の本で) 
       

【郡】    桑折・伊達・石川・相馬・幾世橋・小丸・唯野・只野の苗字
       伊達崎他
       角田・柴田・小山田姓も疑いあり
       桑折コオリの当て字を変えただけ どちらもコオリ役
       1602年三春城代蒲生源左衛門の名ありP44
       大正6(1917)年日立村に小丸源左衛門の名あり※小丸は移民
       文哉という男児に自分の養女を結婚させてる※家族ナシ家庭
       明治39(1907)年代日立村村長は唯野真太郎
       桑折は桑折を出目にした伊達 郡の苗字で出目を現すものナシ
       鹿島町北海老周辺にいた桑折上野直家の断絶の為に来たと
       いう桑折太郎左衛門が、郡姓の有力大元で1542年以降
       1661-1673年の間に唐神堤の土工監として郡勘右衛門の名あり
       郡勘右衛門が一番最初 つまり1661~1673年出現
       源左衛門の名が墓地登記者に出ていた
       小丸源左衛門の名 源孫兄弟の文哉が婿養子に入った
       小丸の世帯主が源左衛門
       鹿島の北海老「大森延命地蔵堂」P85日新は郡家の祖とある
       1751年の棟札あり 同場所に真言円明寺・天王社があった
       顕胤の親族が天神堂の僧という記述は郡が梁川ー角田ー
       大河原方面からの出目を使った偽装だとわかる
       桑折太郎左衛門の時から宮城仙南が郡の名で入ってきてた
       只野一郎の家が言う通り顕成側が 多田野吉左衛門※うち
       只野一郎の家が言う当時の一郎側 多田野五右衛門※相馬藩側
       郡勘右衛門とは只野一郎側に触発されてる
       遺児になった吉左衛門らが身を寄せた親類たる郡家とは洗脳で
       郡の家に子供が遺品幾分運んだらしいが、嘘だろう
       だから吉左衛門を殺しただろと言ってるんだ
       只野(但野)由五郎=由右衛門は赤の他人で吉左衛門の
       遺品を所有物のようにして與惣治に糞みそ支払いさせてた
       洗脳犯罪者が郡と只野一郎の家なのは明白 五は五右衛門の五

【只野】一郎 相馬藩家臣 手代の只野は2名いたようだがうちではない
       只野五兵衛 只野甚五右衛門 只野商事はこの派生
       只は枳の字キフウは枳風 但は但馬の但 唯は漢詩から引用?
       多田野は郡山 多田は源満仲の別姓と言われてるが本当?
       多田野を只野に変えたのはうちが先だ 只野一郎の家は
       枳風と関係ない これを照合できる文献全部窃盗焚書された
 
       子に「正教」の名を付けた 北畠正教は塚野目(国見)
       只野五右エ門 源孫遺書には多田野源辰が五右エ門になってる
       ように書かれてた
       昔は多田野と使ってた うちも多田野と使ってた
       これが只野一郎の家に「顕成は多田野を継いだと言われた
       原因」だが顕成の子の資産の方が人望的にも大きかったのに
       顕家時代の寄合衆の財産を顕成の子が継ぐと思うか?
       この多田野の出目が郡山の多田野村にされてる事から、
       多田野吉左衛門の名使い出した時、多田野の娘と結婚してる       

【唯野】   唯野真太郎/日下石村長 明治39(1906)年
       唯野友助=海東友助=津田応(應)助(愛知郷土史家)※金を詐取
       唯野城助=海東の親? 真野連中(結社)のメンバー
       唯野新八=唯野鬼風を称し吉左衛門の子を自称メトロパチンコ
       唯野智=新羅智👈発見


【海東】   治承4(1180)年標葉郡樋渡村にて名馬寿留須内という母馬あり
       海東小太郎平成衡の後室徳尼が頼朝に献上P9
                      1062年海道には海東平氏の一族、石城・標葉・楢葉・行方の
       諸氏が一郡を領していたP7
       源頼義の娘と結婚した成衡の本名は海東小太郎成衡
                         清原武則の孫にあたる真衡の養子P8
                         ※この時代の話は信憑性ナシ 都市伝説作った連中がいて
       この連中がこの話の元を出せと言われたら出せない
       古文を出してみろって話になる
 
【森】鹿島  名前に「顕」が入ってた森昭文の親は顕家子孫成りすまし
【森】相馬  森正光商店というのがあった 伸光パチンコ景品交換所
       相馬市中村1-3森正光と伸光パチンコ森勝蔵 
       相馬市黒木西立の黒木城建城者黒木大膳亮正光P230   
                       ②相馬光胤    黒木入道大膳亮正
                               芦名盛1110年

【星】酒屋  墓石に「顕」の文字が入ってる 北畠一門の成りすまし
霊山記略P75 寄合衆 星隼人正源是行 西川蔵人将監光明
霊山記略P87   寄合衆 星隼人正源是行 霊山町代皇山城が居城 
霊山記略で、名前に「隼人」が入ってる人は『桑折と星』
ー桑折隼人武彦ー これらは大日本帝国海軍側の桑折と星が結託して付けてるだけ
鹿島の酒屋は一向宗移民 


【伊賀】   新宮小太郎時久(多々良氏)1368-1375年三峯城主ー新宮時兼弟
       は小山七郎左衛門に改め、多々良氏としては八良行政が最初
       の御(尾)山館・三峯城城主。八良行政より9代目の伊賀政重
       は蘆名盛詮を奉じて小高木館に逃れ、後に自害
       熊田伊賀忠氏は白川結城の老臣で子孫の若狭助兼ははじめ
       与惣左衛門光行と称した 永正7(1510)年西白河郡泉崎村
      「伊賀館」
       天正7(1579)年泉崎村の伊賀館は白河勢として佐竹に敗北、
       占拠された
       ー福島中世城郭資料P143,163 ー
       霊山記略P81 多田伊賀守行義 辛中村城主 

紺野伊賀】 森鎮雄の本P29  紺野伊賀
       北屋形村藤迫の館におり、八沢浦沿岸の村を食む
       元亀元年頃、1570-1573年頃北海老浦尻の館に移る
       北郷の士で紺野というのはこの子孫 
       ※北海老近辺は桑折・郡の巣
鹿島神社仏閣P35 北屋形に紺野伊賀の館あり
浪江町の南山中郷津島の城代紺野美濃守重義の二男伊賀守義治1558~70年に
北屋形の藤迫に移り、藤迫義治となのった。
その子紺野伊賀守義清まで2代が住んでいた。後に浦尻で移ってる。
北海老の祠官をしてた紺野P34
浦尻館主紺野氏P33

里正紺野吉左衛門 南屋形
紺野吉左衛門 小島田字東立谷にうちの熊野権現を「熊野権現堂」へ盗んで設置した その場所は遠藤貞信が住んでるとしても、もともとは原之坊蓮華寺で
修験の補陀落山円明院がその地へ熊野権現社を移し、明治6年に遠藤貞信側が熊野権現を移した この事件に相馬藩士として関与した


       
【富田】   富田美作の子・将監という(北会津村・下荒居(井)城)築城者
相馬将監   恵日寺の寺侍で郡山安積の富田村が旧領で、蘆名に従臣
の元?    ー福島中世城郭資料P167 ー

       鹿島町の神社と仏閣P36-38
                         岩松義政(足利の一門)が神官として伊勢四日市から四日市日
         光太夫を招いたという古文が出てるが、1455年になってる
         がこれも改ざん  岩松義政は1419年逝去。息子は1420年
         日里・中里・島・蒔田等に殺された。
       岩松義政が50人位連れて1406年に来てると書かれてるが、
       その構成員の名が全部ナシ

【猪苗代】  天正16(1588)年、猪苗代盛国の嫡子盛胤が猪苗代城を乗っ
猪苗代盛胤  取り、この翌月に伊達政宗に内応し、伊達政宗を勝利に導いた
梁川盛宗   盛胤は蘆名方につき、猪苗代町内で逝去
多分共有   ー福島中世城郭資料P170ー
決定打👉   猪苗代玄盛:宇多郡中野村清水に領主は殿舎を営み別邸とし
                         、清水御殿と称した 森鎮雄P49

【蘆名】   建暦2(1212)年蘆名遠江守盛連の6男、六郎左衛門時連
       喜多方市慶徳町の新宮城を築いたと言ってる
       新宮氏は平姓でかなりの勢力者だったらしいが当時は蘆名
       と戦する関係性。応永20(1413)年新宮盛俊は新宮城の西北の
       高館城に立て籠もり蘆名と戦う1433年新宮氏滅亡
       ー福島中世城郭資料P173・180ー
       熱塩加納村・岩尾館築城者伝説 佐原義連P182

※蘆名の盛連 時連 佐原義連の流れから霊山記略の顕連の名は蘆名方面
パクってた可能性大 蘆名が浪岡吉左衛門を称し元亀2(1571)年9月に死んだと
霊山記略の前半に記載 浪岡系図は最初から捏造で、顕通がまずいない・萩姫が妾として産んだ事だないから、最初から存在しない この顕通の名を最初に持ってきてるのは一条忠良の子だ、建通(久我建通)一条が久我成りすましをやって、久我と2つの名義を営業自演 この久我一派の名には「通」の字あり
久我一派の捏造 久我建通ー久我通久ー久我常通ー久我通顕




                       


 


浪江・大熊の青田家で大手ゼネコン鹿島・東急JVを相手どり、産廃鉄の転売金詐取をやってたね?刑事事件だ。

2023-10-02 15:01:14 | 日記
新開と青田の子が逃亡してるようだが印鑑まで拡大して出してやる
黒木の戸籍に印がある

浪江・大熊の青田家で大手ゼネコン鹿島・東急JVを相手どり、産廃鉄の転売金詐取をやってたね?刑事事件だ。民間解体工事に出た鉄工物は解体品産廃処分費を鹿島JVで払ってるはずで、事前に解体物から出た鉄工をスクラップに売る前提だったら、そのスクラップ費用を鹿島へ戻す契約にするしかない。スクラップ相場は変動があるから、鹿島JVと青田との間で、事前に契約金を決められない。その分の費用相殺で鹿島JVは契約金を支払う 本来は多分こうだ。青田の所でどんな下請けを使おうが、元請責任があって、鹿島から訴状出た場合は青田対鹿島JVになる。それと別に青田対下請間の裁判だろう。
今回のは、転売費用が見込めたらその金額を契約金から控除するか、支払いが終わってたなら返金を求める事項。そうなる前に裁判か刑事事件。
環境省(発注者)対鹿島・東急JV(元請)の契約 鹿島・東急(元請)JV対青田興業(1次下請) 事件発生2023年4月から6月 当時の鉄鋼スクラップkgあたりの相場あるいは領収書、領収書なければ相場で鉄工品の品質に応じkg単価、搬出時の重量と対象物の長さ大きさ この全体で金額がいくらでスクラップにされたかを算出。マニフェストが残ってるはずで、行先と運搬車と搬出物の。
親戚のような。。。という話も嘘・虚言だった人達がまた起こしてる犯罪。

もし今回のコレ あたしと親戚だったとか 嘘の延長でやってた場合
あたしはまた大手に迷惑をかけた事になる
だから こうならないように関係ありませんと名前を出していた
あたしんちにやってきた事を 従業員と下請け何万人もいる会社へやったら
どんな事になるか 裁判か事件
これを名誉棄損だと日弁連の荒中は訴えるか? 相馬藩の荒が日弁連トップになってたのだって、自称皇族らの都合だ
何て酷い国なの 昔のインチキ史を認めず、罪人を上級国民側にしておこうとする為に日々行われる監視や拘束や虐待じみた集団行動
あり得ない

青田興業の記事は今日見つけた 数時間前

大熊・復興拠点の鉄くず、無断持ち出しか 県内業者に売却疑い

福島民友新聞社https://www.minyu-net.com › news › news
2023/09/19 — 町内の建物解体や除染などの工事を鹿島・東急特定建設工事共同企業体 ... 解体工事の受注業者は今夏から別のJVに替わり、青田興業も下請けから外れている ...

放射線量未測定のまま...解体の鉄くず無断売却か 大熊の復興 ...

福島民友新聞社https://www.minyu-net.com › news › news
2023/09/20 — 環境事務所や関係者によると、町内の建物解体や除染などの工事を鹿島・東急特定建設工事共同企業体(JV ... 青田興業」(大熊町)に関係する作業員 ...

放射線量未測定のまま...解体の鉄くず無断売却か 福島・大熊の ...

Yahoo!ニュースhttps://news.yahoo.co.jp › articles
2023/09/20 — ... 鹿島・東急特定建設工事共同企業体(JV)が約51億円で受注し、今年2月ごろ同館の解体に着手した。持ち出しは4~6月ごろ、1次下請けの土木工事業「青田 ...



事件に関係ありそうな人 青田 門馬 郡 桑折 浪江 国分 岡田 志賀
鹿島・東急社員と下請け何万人さらにかつてのゼネコン協力会社
構成人員100万人を仮定し 情報を出す




文字数もデータもパンパン 前の記事分割しないと見ずらい

2023-10-01 01:05:23 | 日記

相馬藩主として充胤あたりが出てきた時はさらに名前だけ継承
PTA役員が流れてきただけ
江戸時代に入ってからもそう
歴代藩主が。。何代目の藩主。。誰が認めてんだって話だが
それほど古くない時代の移民が やたら古くからいたように自称して
大勢を騙しマウントとってただけで うちの古文読めるぐらいお前らは
古いのか!って話だ

うちの古文は資料館なんかに置かれるような古いものが多数で まだあったヤツをこいつらは窃盗横領して横流しやってた
相馬大作亮事件の書面以外にも 読めない書面は多数あるが
提供はしない
「古文持ってます」 「これが藩主でした」と言われたくない

名義を同じにして この連中は「金だけ払って!」と請求よこす人達
それらの犯罪で掴んだ金 その状態が、上級国民側になって
それを国の機関が背乗りしてるだけなんだ

だから相馬から警視庁の人間出たりしてたんだ
福島県に原発誘致した木村守江は相馬藩の木村で 木村はああなる前
単なる相馬藩家臣クラスでうちに借金してたような家だ
どこもそうだ こいつらが 役人側にどっさりまわって役人ズラして
これほど酷い人身御供はない 国際刑事事件だ

文献からいくつの名前を使ってるか探して照合していくが
うちの物は撤去させてもらう 返しなさい

共存はしない だから名義一緒みたいな思考もやめてもらいたいし
ひとんちの家に食料なくなるまで住み続ける悪霊みたいなものだ

木村守江 原発誘致の件で子孫はまだ生きてられるのか? 
その連中はヤクザとセットだったからか 
ああだからこそヤクザの名前まで調べないといけない 

自分はどんな事をしても伏見達とも岩倉・久我・村上らとは、すみ分けしてもらわないと困る。自分の家は戦争被害者でもあって、関東軍?そんなものの責任も負う気はない

覚えてほしいんだが 伏見達は 〇仁の名を使ってる
醍醐・村上・久我達は 天皇子孫と言い 〇良親王の子よ!と言うかもしれないが、うちは被害者だ 被害者自演してるキチガイだ糖質だと、言いがかりつけて大勢で精神病患者のような立ち回りしてた畜生達が たくさんの嘘を
大勢についている
あたしはその嘘の上に立てられても困る 
祀ればいいんだ 祀るのが仕事だと言ってる連中が、神職地位欲しさにわざと問題を集団で押し付け発狂させてきてるなら1000倍返しだ

山神神社の大本はうち 場所は山王平 これに近かった山津見が反応し
これに追従するように栃木から流れてきて この栃木勢の中に吉田神道の吉田がいる これが滋賀の日枝(比叡)に神社の中身を伝達みたいに持っていった
吉田神道の吉田 吉田の名を発見した 鹿島の神社仏閣本P36
相馬忠胤の時京都神祇官吉田ㇳ部朝臣兼光の頃伊勢神社再興(南柚木水神) 
京都の詐欺師がこう言うと「絶対」って思えてしまう洗脳が数千年続いてる

これと別ルートで月山・羽黒メンバーが来てた
これは顕信関係者から逃れてる人達だったと思うが全部入れ替わってる
まるで顕信の子孫と織田信雄の子孫を自演するヤツが、顕家の子のように洗脳
してきて、これもごっちゃにして全部盗んでる だから天童丸という便利な単語を世界に洗脳流してたんだ この国 天童丸と言えば顕家の子か顕信の子か
わからないでしょって言う汚いやり口で だから天童と山寺は特に行けない

顕信の子を自称するヤツと結城・黒木を称する連中のそばは 全部俺がやったんだとすり替えてくるから 近くにいて欲しくない



物だって渡せない 
自称成金ゴミ寄生人間になぜ成りすましされないといけない?
どれだけ311以降震災詐欺やってきてると思ってんだ この糞ゴミども💢
詐欺で裕福と貧乏に分かれて散々相馬藩内の上級国民側が見えてきてるだろ
もともと盗んだ身分を 盗んだゴミをかばう政府要人どもが大勢の金使って救済・延長で利用する事やってたからそうなってたんだ。 
あれほど罪人だと騒いだだろ あたしが精神病だってか? 
言ってみろ あたしは大手の仕事まで采配しいう事聞かせてた人間だから 大手従業員の数を使って、あたしが異常者ではないと知られてるのを ここで使うから。青田興業のスクラップ転売なんて犯罪窃盗の刑事事件だ。

この連中と寒河江・大江・天童は別ルートだ これが織田信雄ラインか
そして 笹谷のエリアに地蔵設置してた記録も見つけた
この連中は山寺に近いほうにたまってたはずだ。山寺と寒河江・大江・村山。
山寺は天台宗だったんだ。行けばわかるはず。
天台宗座主やってた護良親王と言うだけで、そこにたまった村上の一派は
山寺側に優遇されてたんじゃないの?その時期と、大日如来真言宗が当時は顕信側と商売仇みたくなってたはずだ。

真言宗と言いたくないが当時は今の真言宗なんかと違うだろうし、こっちは月山周辺だ。これが鹿島に来たらこれが顕信側が仕向けたって?
嫌だから逃げてきた 嫌だから持ってきた 鹿島橲原にいた吉左衛門の所へ。

天台宗座主やった護良親王が義良(後村上天皇)の親
その場所が山形に集中して、そこに大江 大江の派生寒河江と膨らんで
そこから幾分経過した時 天台宗本山焼き討ち事件が起きた
しかし その張本人織田信長が殺され、伊勢北畠に養子に出した織田信長の息子 信雄が森可成達と結託し 山形と相馬を行き来。織田信雄が田丸直昌に命令し、顕家の子殺害を企ててるんじゃ どうしたって顕信子孫側が自分達に
身分かぶせ成りすましするのに寄生してる

一番寄生しやすいんだ 名前は顕って使えばいいし 昔の行動拠点も類似性高いし、物をうちから取り返し 顕家の子孫だよ!と嘘ついて今まできてるんだから その集団。顕信子孫を自称するヤツが福島市に佐藤の苗字でいる。

霊山記略P47
北畠顕家の長男子であられし顕成卿は後吉野行宮に奉仕し初め検非使別當を拜し尋て従2位に叙し大納言に任ぜられた事は記録に明らかなる事実にして
←なぜ見出しに従2位顕成の名が載ってない❓
一部省略

顕成卿深く遠大の志謀を樹て御年18歳にして遠く津軽弘前城南朝無二の南部家を訪ねて、その館に入らせられ、霊山より避けられた失意の陸奥守鎮守府将軍源守親卿の浪岡御所に入られ両卿とともに長慶天皇へ書を上り
以後省略

←霊山記略P132に1353年出羽津軽一族へ守親の子顕能が入り浪岡を称すと書いてるでしょ?でもP137に顕能は筑紫の任地で1383年に死去
顕成18歳で浪岡に行ったというなら、その時期は1355年。あたしが仮で計算してる熙成誕生は1354年。長慶天皇への書でなく、長慶天皇になる前の我が子熙成に手紙を当てたなら、熙成の年齢は1歳
浪岡一族に入った一番手は顕信の孫 顕能で、顕成にしたら叔父の孫
この叔父の孫 浪岡顕能を飛ばして、父親の守親が浪岡御所の主とは、これいかに?だったら、顕能が浪岡に入って浪岡を称したと書かずに、守親が浪岡を名のりだし、子が浪岡になったと書けばいいのでは?
ここに、この連中の隠してる事が存在する

「顕成の存在を認めつつ従2位だと認めつつ、浪岡御所を継いだかのようにでっち上げてる」書き直ししてるんだ 原稿を。
顕成は長慶天皇の父親だから、青森で*守親(顕成にしたら叔父の子)*に
「赴任先から頼りを出しましょ、2人で」と言われて子のいる吉野朝廷?に手紙送付したんだ
単なる赴任だ そうだ 浪岡継いだとかではなく、一時的滞在だ
この手紙出した事は記録で残っていても顕成は福島県に戻っている
戻ってるし、後村上天皇が崩御する前、熙成を立太子させてる、あたしの計算上、熙成はこの時3歳だ。青森にいる場合じゃないでしょ 父親なら。
熙成立太子、長慶天皇就任時14歳くらい 顕成は30歳だ。
これから15年即位してるんだ 熙成=長慶天皇が。
青森にいれる訳ないよね 青森に守親がいたなら、顕信の息子(守親)都合の改ざんだ。この守親の息子 顕能は筑紫で死んでるんだぞ 赴任地で。
青森に守親の息子は、死ぬ頃いなかったんだ。
顕信自体61歳まで生きてる 山形含めあちこち出かけてる。この顕信が出先で女と子供作ってたら、その子達の名に顕ってついてるだろ?
そうでないなら、信 これと、後醍醐の息子達や顕能の子が顕って使えば
こっちは過去帖強奪・窃盗されたり わからなくされてるのに、
顕信・後醍醐方面は 乗っ取りし放題だったわけだ。
この顕信の息子も孫も伊勢国司にされてるし、天台宗の座主についた事もある護良が伊勢とのパイプ。鎌倉で護良殺されたか、本当に脱出し石巻・金華山に逃げたかはわからない。  

江戸時代公卿と称し ゴミのような醍醐がいた なぜ冬実で通さない?
ストーカー能無し醍醐 顕家から苦情文出された みっともないって子孫代々
根に持ってる苗字だ それ。それどころか、熙成親王の1文字名前に使ってたら、過去帖盗んだこいつら集団は 成りすましし放題だったわけだ。
醍醐冬実だけならまだしも 冬熙って言ったら、うちの過去帖の先にいるのか?ってなるだろ💢 もうたくさんだ ゴミストーカー

冬煕の父醍醐冬基は後陽成天皇の第九皇子(皇別摂家)一条昭良の次男である
←だったら、一条で名のれ💢一条冬基 
醍醐 一条冬実冬熙は、江戸時代中期の公卿。従一位左大臣。初名は冬実・昭尹。一字名は召。号は後信性普明寺。後陽成天皇の男系三世子孫である。 ウィキペディア 



名前を奪ってこき使う 名を返さない まるで台湾の「千と千尋の神隠し」そっくりだ。どれもこれも。
名を自分達が背乗りするカツアゲのように。
同じ名でなく1文字使って同族のように見せかけし、相手を洗脳する。


真言宗に独立するのは相当後の事で、真言宗と天台宗はしばらく同じようなモノだった。馬頭観音の石像の古さを比較しても、丸森山中筆甫から梁川ラインは古い。鹿島にもバラバラあるが福島市にも古いのがある。

それと別に多くあるのは大倉ダム周辺。
もっと広域調べるには金がかかる しかし貴様らが拘束し、清算金を掴んだまま こういう事全部を放置し盗撮盗聴で情報集めしてる。
これを調べる能力 時間 生活費全部知らんぷりで 後でかぶろうとだけしてる。これに殺意わかないと思うか?

これは昔うちが行き来したルートに置かれてるようにも思えるが うちではない。梁川城は1500年築城だぞ? うちが行き来しててもうちで馬頭観音を置いてまわったのではない。

南北朝廷戦争は1300年代だぞ?最初の相馬義胤の時が1500年代だ 盛胤と言ってるヤツが梁川なら、コイツが顕胤の親だと捏造された時期、伊達側に晴宗
植宗らがいて伊達姓使ってない連中含め当時 親戚 おれも親戚みたいな事を
やってると 相馬藩主なんて伊達がやってたのと一緒だ。そしたら、伊達の石数、相馬の石数すらあやしいし、うちの名義でやってた分の金、権利書
どこにやってんだ💢 調べてる本や資料で、城主死んだから〇〇が受け継いだとか出てくるが、相続者へのアレコレを文献で残してるはずだ。
それを飛ばして ゴミ武士らが、身分すり替えてその死人の子を演じ出して
死人の所有財産多い程乗っ取りに群がるだろ。
梁川城1500年 築城費用もうちだ 盛胤が顕胤と名指しして嫡子と嘘をつき、盛胤が梁川なら築城費決済 うちにされてただろ?そして消しただろ? 蘆名も盛の名使ってこれが亘理か仙南か
中通りか会津か 名義だけ上っ面で使ってたな?