南三陸町と登米市は、古くから人そして物の交流も深く、そのルートは北から、志津川入谷から弥惣峠を越えて東和鱒渕・米川方面にぬけるルート、同じく国道398号で入谷を通って水界(みずさかい)峠(現在は新水堺トンネル)を越えて東和米谷へのルート、また、志津川水尻川に沿って県道172号で羽沢峠を越えて登米(とよま)にぬけるルート、そして国道45号で戸倉から津山にぬけるルートが、主要なルートとなっていました。他には、志津川入谷の岩沢から五百峠を越えて東和鱒渕・米谷方面に繋がるルートがあるようですが、こちらは車両での通行はできないようです。
今回、一番北に位置する弥惣峠、そして中程に位置する羽沢峠のルートを訪ねてみました。
やはりこの時期ですから、峠への上りは北斜面側に取り、まずは東和鱒渕から弥惣峠を目指します。
県道から分かれての道は、未舗装となり狭い道となりますが、ゆったりとした勾配の道で、ゆっくり上がっていくと、峠らしき光景が目に入ってきました、「弥惣峠」です。
この弥惣峠は、入谷の里に害をなす弥惣を退治するため、源義経が手勢を引き連れて訪れた場所とのことです。
送電線鉄塔のある高台に登ってみましたが、視界は山間から東和方面が若干見える程度でした。
峠を越え、下って出たところは、弥惣峠からの水で砂金堀りが行われていたという弓折産金遺跡に近い林際(はやしぎわ)地区、峠への案内が見えます。
廃校になった旧林際小学校「校舎の宿さんさん館」前を通り、神行堂山麓の巨石を探しに石の平方面に向かいました。
分岐点の案内板に従って入っていきましたが、巨石は集落に隣接した林に隠れていてちょっと見つけにくいものでした。
巨石には三つの裂け目があって、善人は通れるが悪人は通れないという言い伝えがあります。
少し離れた場所には、「なまこ石」というナマコのような石が道の側にあったりします。こんな巨石がなぜ、この一帯にあるのでしょうか、不思議です。
次に、弥惣峠に深く関係のあるという入谷八幡神社を訪れました。
この八幡神社は、京都からの願いに源義経がに弥惣退治の役を買って出て、戦勝した御礼として京都の石清水八幡から神の分身が移しまつられたと伝えられ、鬱蒼とした林の中に古くからの神社の雰囲気が残されています。
石段を登り鳥居をくぐりると、右に大きな鐘楼が目に入りました。神社に鐘楼はめずらしいと思うのですが、明治の神仏分離まで真言宗の寺院だったようです。
お社の前に鎮座するタコの像は、震災からの復興を願う立正大学から寄贈された「東北復興「ゆめ多幸鎮(たこうちん)」オクトパス君」のブロンズ像(高さ70㎝)です。
普通のオクトパス君は、神社下の旧入谷中学校に入っている「Yes工房」で作られていて、そこで購入できます。
さて、もう一つの峠「羽沢峠」を目指すとしましょう。
入谷八幡神社を後に、国道398号を東に取って志津川中心部へ、そして国道45号を少し南下して、羽沢峠への県道に入っていきます。
羽沢峠への道は、旧志津川警察署を過ぎて水尻川に架かる橋の手前を右に折れ、水尻川に沿って進みます。
ここも押し寄せた津波が、地域の殆どのものを押し流してしまってました。
その中にあっても、桃山様式の山門、回廊、そして鐘楼を持つ松林山大雄禅寺は山門に続く杉並木を残していたのですが、国道から川に沿って進むと、その先の異変に気づきました。
山門に続く杉並木が見えず、その先にある風景が見渡せるのでした。
近づくにつれ、杉並木に変わって重機などが確認でき、並木は津波塩害により伐採されていたのでした。
山門前の杉並木は、直径1mを越す巨杉の並木で、何百年とこの地に根を張ってきた貴重な資源でした。
まさしく何百年に一度という災害に遭遇したのだと、確信するものでした。
大雄禅寺を後にして、その先の集落が切れる頃に道の分岐点があり、道路標識に従い登米方面に進むと、間もなく道は上りへと変わります。
一部に道幅が狭いところもありますが、峠まで順調に上がれます。
途中で視界が開けてくると、志津川の街や袖浜などが見え隠れし、いつの間にか峠にさしかかります。
峠の駐車スペースに車を置き、作業道を登っていくと、さらに視界は開け、真東の方向に志津川の街、袖浜・荒島を、そして北の方に室根山などを望むことができます。
西側の視界は確保できませんが、東側は神割方面から歌津崎、またその先までも見渡せる大パノラマが広がります。
この場所に、展望台やベンチでもあると最高ですネ。
峠から登米方面に向かう道は、震災後、落石のため通行止めとなっていた道で、2月下旬まで復旧工事が続くようですが、通行は可能となっていました。
今度は、まだ木々の葉が小さい、新緑の頃に訪ねてみたいと思います。
(O.920)
今回、一番北に位置する弥惣峠、そして中程に位置する羽沢峠のルートを訪ねてみました。
やはりこの時期ですから、峠への上りは北斜面側に取り、まずは東和鱒渕から弥惣峠を目指します。
県道から分かれての道は、未舗装となり狭い道となりますが、ゆったりとした勾配の道で、ゆっくり上がっていくと、峠らしき光景が目に入ってきました、「弥惣峠」です。
この弥惣峠は、入谷の里に害をなす弥惣を退治するため、源義経が手勢を引き連れて訪れた場所とのことです。
送電線鉄塔のある高台に登ってみましたが、視界は山間から東和方面が若干見える程度でした。
峠を越え、下って出たところは、弥惣峠からの水で砂金堀りが行われていたという弓折産金遺跡に近い林際(はやしぎわ)地区、峠への案内が見えます。
廃校になった旧林際小学校「校舎の宿さんさん館」前を通り、神行堂山麓の巨石を探しに石の平方面に向かいました。
分岐点の案内板に従って入っていきましたが、巨石は集落に隣接した林に隠れていてちょっと見つけにくいものでした。
巨石には三つの裂け目があって、善人は通れるが悪人は通れないという言い伝えがあります。
少し離れた場所には、「なまこ石」というナマコのような石が道の側にあったりします。こんな巨石がなぜ、この一帯にあるのでしょうか、不思議です。
次に、弥惣峠に深く関係のあるという入谷八幡神社を訪れました。
この八幡神社は、京都からの願いに源義経がに弥惣退治の役を買って出て、戦勝した御礼として京都の石清水八幡から神の分身が移しまつられたと伝えられ、鬱蒼とした林の中に古くからの神社の雰囲気が残されています。
石段を登り鳥居をくぐりると、右に大きな鐘楼が目に入りました。神社に鐘楼はめずらしいと思うのですが、明治の神仏分離まで真言宗の寺院だったようです。
お社の前に鎮座するタコの像は、震災からの復興を願う立正大学から寄贈された「東北復興「ゆめ多幸鎮(たこうちん)」オクトパス君」のブロンズ像(高さ70㎝)です。
普通のオクトパス君は、神社下の旧入谷中学校に入っている「Yes工房」で作られていて、そこで購入できます。
さて、もう一つの峠「羽沢峠」を目指すとしましょう。
入谷八幡神社を後に、国道398号を東に取って志津川中心部へ、そして国道45号を少し南下して、羽沢峠への県道に入っていきます。
羽沢峠への道は、旧志津川警察署を過ぎて水尻川に架かる橋の手前を右に折れ、水尻川に沿って進みます。
ここも押し寄せた津波が、地域の殆どのものを押し流してしまってました。
その中にあっても、桃山様式の山門、回廊、そして鐘楼を持つ松林山大雄禅寺は山門に続く杉並木を残していたのですが、国道から川に沿って進むと、その先の異変に気づきました。
山門に続く杉並木が見えず、その先にある風景が見渡せるのでした。
近づくにつれ、杉並木に変わって重機などが確認でき、並木は津波塩害により伐採されていたのでした。
山門前の杉並木は、直径1mを越す巨杉の並木で、何百年とこの地に根を張ってきた貴重な資源でした。
まさしく何百年に一度という災害に遭遇したのだと、確信するものでした。
大雄禅寺を後にして、その先の集落が切れる頃に道の分岐点があり、道路標識に従い登米方面に進むと、間もなく道は上りへと変わります。
一部に道幅が狭いところもありますが、峠まで順調に上がれます。
途中で視界が開けてくると、志津川の街や袖浜などが見え隠れし、いつの間にか峠にさしかかります。
峠の駐車スペースに車を置き、作業道を登っていくと、さらに視界は開け、真東の方向に志津川の街、袖浜・荒島を、そして北の方に室根山などを望むことができます。
西側の視界は確保できませんが、東側は神割方面から歌津崎、またその先までも見渡せる大パノラマが広がります。
この場所に、展望台やベンチでもあると最高ですネ。
峠から登米方面に向かう道は、震災後、落石のため通行止めとなっていた道で、2月下旬まで復旧工事が続くようですが、通行は可能となっていました。
今度は、まだ木々の葉が小さい、新緑の頃に訪ねてみたいと思います。
(O.920)