アキちゃんのなんでんかんでん

長崎のソウルフードを愛するひとりです
我が家の普通のごはんです
妻に感謝して、頂きます

愛犬ラブちゃん 月曜日

2022年01月31日 15時16分35秒 | チューリップ

朝ごはん

昼 即席ラーメン

おやつ 甘かったなぁ~

夜 最高のご馳走でした。

 

我が家のラブちゃん 今年で20年目を過ごしています。

犬の年齢で云うと100歳を越えています。いまでは介護犬ですがよく頑張っています。妻がよ

く診てくれています。また4日ほどごはん食べていません。

日本でいちばん待ち合わせの場所で有名な渋谷「忠犬ハチ公」ですが、ハチ公は幸せだったの

か?物語は主人を待ち続けた忠犬ハチ公の真実 感動物語の裏には壮絶秘話がありました。

1924年〔大正13年)東京・渋谷での事 秋田県・大館市から送られてきた生後約2ヶ月の

秋田犬 受け取ったのは上野英三郎 妻 八重子 東京帝国大学教授の農学博士農業土木の生み

の親とも云われている。上野氏は門下生からもご近所からも慕われていた。秋田犬の子犬が欲し

いとたっての願いで植木屋の菊三郎さんが連れて来た。妻が早速名前を付けてあげましょう

と・・妻がハチと付けましょうと・・子どもがいなかった夫妻にハチは我が子同然可愛がりまし

た。ところがハチは病気になりもらい受けたとき、ハチは物凄く身体が弱く徹夜の看病すること

も・・・そして半年過ぎたところ、上野博士の通勤の送り迎えするようになっていた。

大学の正門まで渋谷の改札まで見送りしていた。見送りが終わると自宅に戻り、夕方になると

送った場所で上野博士出迎えしていた。本当の親子のようにいつも一緒に過ごした。

だが1925年(大正14年)5月21日 上野氏は帰らぬ人に・・・博士と過ごせたのは

わずか1年4ヶ月ハチ三日もごはん食べてないじゃない 旦那様はおかえりにならないのよ だ

からごはんお食べ一般的にはその後ハチが渋谷駅で、上野博士を待ち続けると思われています

が、実際にハチが主人を渋谷駅で待つようになったのは、それから約2年後の事なのです。その

2年の閒ハチの身に何が起きていたのか?ハチが唯一頼れたのが妻・八重子 しかし八重子は双

方の許しが貰えず内縁の関係だった。博士の死後はその家を出て行かねばならない。知人の家に

居候することに・・・なるのだが居候の身であるのでハチを連れて行けない。ハチを知人に預か

って貰おうと・・・随分大きいね どうかお願いします。おとなしい子ですから わかった。

仕方無いことですが、1日中鎖に繋がれたままの生活でした。あの頃と違うー散歩もあまり行け

なかったと云う。 ハチ公は秋田犬ですので非常に大きくて食べ物もたくさん食べるのです。お

金もかかるしなぜこんなエサを与えなくちゃならないのかなぜこんなお世話をしなくちゃならな

いのか・・厄介者扱いにされた。そんな中網を解いてもらった日の事お客を八重子と勘違いして

女性の肩に乗ったり客は怖がってしまい・・申し訳ないがうちには置いておけないと断られる。

それから親戚に預けることになりました。再び鎖に繋がれた生活たまに散歩に出るが・・・ハチ

が通るとそこら近所の犬が姿を隠しちまうんだ。顔が怖いんだよな。いろんな悪口言うんですよ

ね。あるいは叩かれたり厄介者悲しい思い寂しい思いがあった。あの頃と状況が一転 してしま

った。可哀相 ハチが悪いのでないのに・・・どうすることも出来ない八重子 そんな窮地を救

ったのはー上野博士の教え子だった。世田谷に新居を用意してくれた。ハチも元気で庭で遊ぶよ

うになりました。ある日のこと、夕食の時間に帰って来ていたがその日は戻って来てない。夜ふ

けた頃帰宅度々夜中に帰るように・・そして電話が この前渋谷でハチそっくりの犬を見かけた

けどあれハチじゃないかしらと電話がある。渋谷で? 先生を迎えに行ってるんじゃないかし

ら?渋谷で幸せに暮らした日々 いまでも博士が帰ってくると信じているハチ。渋谷に住む

小林菊三郎の家に預けようとお願いに・・ハチを博士の家に連れて来た人物それはちょっと・・

上野先生の大事な形見をお預かりしてもし間違いがあったら言い訳が立ちません。ではハチをあ

なたにお譲りします。菊三郎とは博士宅の植木職人ハチは世田谷の家より渋谷の家 ハチの幸せ

を願って八重子は菊さんに頼んだ。ハチは新しい飼い主のもとへ この頃から渋谷駅で待つよう

にー上野博士が亡くなった約2年後こうしてハチは主人を待つ 健気な犬としてすぐに人々に愛

された そう思ってる方は大間違いです。 実はここからさらなる過酷な運命が待ち受けていた

のです。1927年(昭和2年)秋頃 ハチは毎日の様に渋谷駅へ向かったのだが 商売の邪魔

だとか大人しい事を良いことに高価な胴輪を盗る者も・・・胴輪のないハチは野犬として捕獲さ

れそうになった事もある。邪魔だから足で蹴られる水を掛けられて退かされる。なかには顔に落

書きする者がいて面白がって、ハチはかなりかわいそうな目にあっていた。渋谷に来て5年も厄

介ものにされ、他の犬に噛まれ左の耳が・・・垂れてしまった。ハチ公はおとなしくて優しい犬

なので、決して吠えたり怒ったりしないで黙って渋谷駅にいた。1932年(昭和7年)10月

1日 渋谷町から渋谷区になったとき、ハチにも転機が来る。そのきっかけは、とある新聞記事

「いとしや老犬物語」いまは世になき主人の帰りを待ちかねる⒎年間。1932年(昭和7年1

0月4日)朝日新聞に掲載された。翌日からまるっきり様子が変った。なんて偉い犬なんだろ

う、健気な犬なんだろうと世代を問わず可愛がられる。翌日、ハチ公の頭をなでるため順番待ち

の列ができたとか。駅には手紙やお金が届く。やっと人々に愛され始めたハチ公 当時10歳の

老犬 待ち続けたハチ 長く後世に残したいと云う声が高まりハチの銅像を造ることを決定。1

934年(昭和9年)4月21日ハチ公像の除幕式が行われた。意外な真実が・・そのとき、ハ

チ公は生きていました。今とは違う駅舎の屋根の下に建てられました。ハチも自分の銅像見てい

ました。ハチ公も体力衰え、駅に寝床が用意されました。冬が来ても待ち続けた。また博士に会

えると信じて・・・1935年(昭和10年)3月8日 早朝永眠享年11歳だった。

ハチは八重子のもとへ よく頑張ったね。約7年半渋谷駅で待ち続けた八重子は首に黒と白のリ

ボンを巻いた。ハチの亡骸は国立科学博物館で剥製で残されている。ハチの慰霊碑は青山霊園の

上野博士のお墓の隣に建てられ再び会うことができました。

そして最後まで見守り続けた八重子さんにも、ある奇跡が起きたのです。生前の八重子の願いが

あった。私のような」ものが先生のお墓に入れて貰えないことはわかっております。ですがせめ

て先生のお墓の横にある灯籠の下でいいので私の骨を埋めて貰えませんでしょうか。先生とハチ

に会いたいのです。お願いします。家族を愛した八重子の切なる願いだった。願いは時を超え

て・・・八重子の死から55年後2013年 渋谷でハチの展示会が開催がきっかけで関係者が

働きかけ、青山霊園にある上野博士のお墓に2016年八重子さんの遺骨が納められた。