まずはJRの車両の構造から説明せねばならない。
ひで氏です。
先日、電車の中で驚くべきことがあった。
JRのある車両というのは、入ると両サイドに壁があるタイプのものがある。
それはつまり、座席が二人一組のボックス席になっているため、端っこの席の背もたれ部分がそのままドア際の壁になっているというものだ。
その壁 -- つまり座席の裏側には、実は折りたたみ式の座席が収納されている。取っ手がついていて、それを手前に引くと座席になるのだ。ただしこのエリアには混雑時人がたくさん立つので、そういうときは取っ手を引いても席が出せないようになっている。車掌室でオンオフができるのだろう。
この日はもう終電に近かったので、電車は空いていた。私ひで氏は電車に入り席がちらほら空いているのを見たが、なんとなくこの「飛び出し席」が使えるときはその特別感から出して使ってみたくなってしまう。
他にもすでに使っている人がいる。飛び出し席は利用可能なのだ。
ちなみにこの飛び出し席は、引くときに結構な力がいる。お尻を乗せつつ引き出さないと、結構な抵抗力で戻ってくるのだ。
考えてみれば当たり前のことで、この機能のおかげで降りるときに立ち上がれば何もせずともまた席が自動的に壁に収納されるのだ。それもこのとき単純にバネの力でバン!と戻るわけではなくて、すーっとゆっくり、しかし力強く戻っていく。こういう細部の技術が日本は異常だ。
さてこの飛び出し席に座っていた私ひで氏の目の前には、同様にこちらを向くように対になった飛び出し席に座っている御仁が居た。
コートを着ては居るが、襟の部分はだらしなく空き、大きな口を開けて眠りこけている。
いわゆる酔っ払いである。
よっぽど楽しい飲み会だったのか、いやはたまたとんでもないストレスから解放されるために飲み過ぎたのか…そんなことを思いながら何の気なしにこの人を見ているうちに、電車はある駅に到着した。
私ひで氏は次の駅で降りるので座ったままだが、この人はその駅が下りるべき駅だったらしく、駅に着くと同時にうっすらと目をあけた。
「あ、あ。おりな。」
とつぶやきながら立ち上がろうとするが、一度失敗しまた座ってしまう。しかしまた立ち上がる。そのたびに飛び出し席はゆっくりと彼の尻に沿って元の壁に戻ろうとする。こちらがやきもきするぐらいゆっくりとした動作でやっと立ち上がった彼は、出口の方に向かって千鳥足で一歩を踏み出す。
普通の動きであればそのまま人は出口に向かい、飛び出し席はすっと壁にまた無言で収まるのだが、彼が酩酊状態であったこと、そして座席付近で異様なほど緩慢な動きになったこと、そしてそのだらしなくなっていたコートの状態が奇跡を起こした。
彼のコートの裾が席を離れるよりも、席が壁に戻る方が勝ってしまったのだ。
結果、コートの裾は壁に収まった席に挟まり、あたかもコートが彼を引っ張り返すような状態になった。
こんなとき、酔っ払いに何を言っても無駄である。
夢遊病者の様に出口に向かう彼は、たとえ声をかけたとしても無駄だったであろう。コートの袖が少し引っ張られたと言って止まるわけがない。
力のかかり方にも微妙なミラクルがあったのだろう、なんとコートはそのままスルーっと彼の体から脱げたのである。
すんでのところで彼は電車を降りることが出来た。しかし、コートはそこに残ったのである。
なぜ声をかけなかったのか。投げることもできただろう。
そんな感想をお持ちかもしれない。
しかし目撃者はある程度いたにも関わらず、私を含めそこに居た人たちは声を発することも、動くことさえできなかったのだ。
それは、一日の仕事を終えようとしている電車の中で起こった美しい自然現象の様にも見えた。
深夜近くにその活動を活発にするヨッパライという生き物が目の前で見せた脱皮。
私達は、普段は決して人間の目の前で見られることはない、何か世界で初めて目撃されるとても珍しい現象を目の当たりにしたのだ…
ついさっきまで見事な千鳥ステップをヨッパライと共に奏でていた、彼の体の一部であった布は、それが嘘のように無機質に床にだらしなく落ちていた。
ひで氏です。
先日、電車の中で驚くべきことがあった。
JRのある車両というのは、入ると両サイドに壁があるタイプのものがある。
それはつまり、座席が二人一組のボックス席になっているため、端っこの席の背もたれ部分がそのままドア際の壁になっているというものだ。
その壁 -- つまり座席の裏側には、実は折りたたみ式の座席が収納されている。取っ手がついていて、それを手前に引くと座席になるのだ。ただしこのエリアには混雑時人がたくさん立つので、そういうときは取っ手を引いても席が出せないようになっている。車掌室でオンオフができるのだろう。
この日はもう終電に近かったので、電車は空いていた。私ひで氏は電車に入り席がちらほら空いているのを見たが、なんとなくこの「飛び出し席」が使えるときはその特別感から出して使ってみたくなってしまう。
他にもすでに使っている人がいる。飛び出し席は利用可能なのだ。
ちなみにこの飛び出し席は、引くときに結構な力がいる。お尻を乗せつつ引き出さないと、結構な抵抗力で戻ってくるのだ。
考えてみれば当たり前のことで、この機能のおかげで降りるときに立ち上がれば何もせずともまた席が自動的に壁に収納されるのだ。それもこのとき単純にバネの力でバン!と戻るわけではなくて、すーっとゆっくり、しかし力強く戻っていく。こういう細部の技術が日本は異常だ。
さてこの飛び出し席に座っていた私ひで氏の目の前には、同様にこちらを向くように対になった飛び出し席に座っている御仁が居た。
コートを着ては居るが、襟の部分はだらしなく空き、大きな口を開けて眠りこけている。
いわゆる酔っ払いである。
よっぽど楽しい飲み会だったのか、いやはたまたとんでもないストレスから解放されるために飲み過ぎたのか…そんなことを思いながら何の気なしにこの人を見ているうちに、電車はある駅に到着した。
私ひで氏は次の駅で降りるので座ったままだが、この人はその駅が下りるべき駅だったらしく、駅に着くと同時にうっすらと目をあけた。
「あ、あ。おりな。」
とつぶやきながら立ち上がろうとするが、一度失敗しまた座ってしまう。しかしまた立ち上がる。そのたびに飛び出し席はゆっくりと彼の尻に沿って元の壁に戻ろうとする。こちらがやきもきするぐらいゆっくりとした動作でやっと立ち上がった彼は、出口の方に向かって千鳥足で一歩を踏み出す。
普通の動きであればそのまま人は出口に向かい、飛び出し席はすっと壁にまた無言で収まるのだが、彼が酩酊状態であったこと、そして座席付近で異様なほど緩慢な動きになったこと、そしてそのだらしなくなっていたコートの状態が奇跡を起こした。
彼のコートの裾が席を離れるよりも、席が壁に戻る方が勝ってしまったのだ。
結果、コートの裾は壁に収まった席に挟まり、あたかもコートが彼を引っ張り返すような状態になった。
こんなとき、酔っ払いに何を言っても無駄である。
夢遊病者の様に出口に向かう彼は、たとえ声をかけたとしても無駄だったであろう。コートの袖が少し引っ張られたと言って止まるわけがない。
力のかかり方にも微妙なミラクルがあったのだろう、なんとコートはそのままスルーっと彼の体から脱げたのである。
すんでのところで彼は電車を降りることが出来た。しかし、コートはそこに残ったのである。
なぜ声をかけなかったのか。投げることもできただろう。
そんな感想をお持ちかもしれない。
しかし目撃者はある程度いたにも関わらず、私を含めそこに居た人たちは声を発することも、動くことさえできなかったのだ。
それは、一日の仕事を終えようとしている電車の中で起こった美しい自然現象の様にも見えた。
深夜近くにその活動を活発にするヨッパライという生き物が目の前で見せた脱皮。
私達は、普段は決して人間の目の前で見られることはない、何か世界で初めて目撃されるとても珍しい現象を目の当たりにしたのだ…
ついさっきまで見事な千鳥ステップをヨッパライと共に奏でていた、彼の体の一部であった布は、それが嘘のように無機質に床にだらしなく落ちていた。