![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/b4/8348df9fd2d84b2b8d0da0c8063a58ac.jpg)
先日は塚本ハウリンバーで久々のソロ弾き語りライブだった。
ひで氏です。
ここで言葉の問題についてちょっと思うのだが、「ソロ」と「弾き語り」というのは意味が重複していると思う。
複数人での弾き語りというのはあまり言わないと思うので、これは「新しい新曲」とか「細いガリガリの人」とか言うのと同じだ。
それだけならまだいいのだが、この「弾き語り」という言葉の音感が強すぎると思う。
どうしても古き良き時代の神田川的な何かを背負っているように感じるのは自分だけだろうか。
だから、ソロライブというと、出演者が自分だけのワンマンライブだと思われる危険性があるし、
かといって弾き語りライブというのも何か四畳半の匂いがして言い憚ってしまう。
それを誤魔化すためか、よく人に「ソロ弾き語り」と合体させた言葉を使ってしまうのだが、よく考えたらこれは
「四畳半で哀愁漂う曲を延々とやる単独ライブ」だと言っているようなものではないのか。
考えすぎと言われるかもしれないが、何かこうもっとしっくりくる表現が欲しい。
要は照れがあるのだと思う。
ソロで歌うというのはとてもエネルギーがいるし、精神的に越えなければいけないハードルがいくつかある。
何か不自然なことをやっているのではないか
鎧をすべて解いて戦場に出ているような状態ではなかろうか
こんなやり方でショウとして成り立っているのだろうか
普段重厚なサウンドでやっているバンドマンとして、どうしてもこう思ってしまうのだと思う。
とりあえず無事時間通りに会場入りしてリハーサルをする。すでにセッティングを済ませてくれていたが、「座り」セッティングだった。
そうか、ソロだから座って歌うのもありかな…と思って一度座ってやってみるが、マー声が出ない。
たまらず立つ。長年バンドで立って歌ってきたし、これまでのソロライブでも座ってやったことがないのだから、座っての声の出し方がわからないのだろうと思う。
リハ終了後も何か落ち着かなくて、塚本駅周辺を歩いて腹ごしらえする場所を探した。
先日バンドで出演した時に閉まっていて入れなかったラーメン屋に入った。なんとなくリベンジした気になった。
いよいよハウリンへ戻ってライブをしたわけだが、結論から言うと自分の持っていた不安はすべて吹っ飛ばされたのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/b4/8348df9fd2d84b2b8d0da0c8063a58ac.jpg)
最も古くから私ひで氏の曲を聴いてくれているだろうと言うファンの方が、当日のFacebookの投稿を見て駆けつけてくれた。
ASBのライブでよく会っていたという二人のファンの人が、この日の私ひで氏のソロライブを見に来て再会し、感激する様子があった。
何年も前の出会いから曲を聴き続けてくれて、この日にわざわざ見に来て涙してくれていた人がいた。
ハウリンバーで働いていた元スタッフの人が、このライブのために来てくれていた。
初めて見たという人が、「本当に感動しました」と声をかけてくれた。
たまたま通りかかったというテキサス州オースティンから来たというアメリカ人が、ずっと動画を撮ってくれていた。
そして何より、
あまたの音楽を現場で聴き続けているハウリンバーのT氏が「僕はアランスミシーの曲と樫本さんの歌声が好きすぎる。マンスリーでやろう!」
と言ってくれた。
これは相当吹っ切れた。ぐずぐず悩んでいた自分が恥ずかしかった。
聞いてくれる人がいるのなら、いつまでもやれる限りやろう。と思った。ソロをやる度に思うが、これほど強く思った夜は無い。
T氏が言ってくれた「アランスミシーバンドの曲」という言葉は実は目から鱗だった。
これまで、ソロでやるというと、「自分が書いた曲を一人で演奏している」と思っていたのだと思う。自分が作曲している時の、「ひで氏の曲」の段階の曲をやるイメージを持っていた。T氏の「アランスミシーの曲」という言葉で、自分が今夜やった一つ一つの曲はすべて、「自分が生んだアイデアを4人で形にした曲」なのだということに改めて気づかされた。このバンドでなければ「こうはならなかった」という曲ばかりだ。そう思えば、自信を持って披露できる。
この夜関わってくれた皆さんに感謝しつつ、
忙しくなりそうだなと思った。
ひで氏です。
ここで言葉の問題についてちょっと思うのだが、「ソロ」と「弾き語り」というのは意味が重複していると思う。
複数人での弾き語りというのはあまり言わないと思うので、これは「新しい新曲」とか「細いガリガリの人」とか言うのと同じだ。
それだけならまだいいのだが、この「弾き語り」という言葉の音感が強すぎると思う。
どうしても古き良き時代の神田川的な何かを背負っているように感じるのは自分だけだろうか。
だから、ソロライブというと、出演者が自分だけのワンマンライブだと思われる危険性があるし、
かといって弾き語りライブというのも何か四畳半の匂いがして言い憚ってしまう。
それを誤魔化すためか、よく人に「ソロ弾き語り」と合体させた言葉を使ってしまうのだが、よく考えたらこれは
「四畳半で哀愁漂う曲を延々とやる単独ライブ」だと言っているようなものではないのか。
考えすぎと言われるかもしれないが、何かこうもっとしっくりくる表現が欲しい。
要は照れがあるのだと思う。
ソロで歌うというのはとてもエネルギーがいるし、精神的に越えなければいけないハードルがいくつかある。
何か不自然なことをやっているのではないか
鎧をすべて解いて戦場に出ているような状態ではなかろうか
こんなやり方でショウとして成り立っているのだろうか
普段重厚なサウンドでやっているバンドマンとして、どうしてもこう思ってしまうのだと思う。
とりあえず無事時間通りに会場入りしてリハーサルをする。すでにセッティングを済ませてくれていたが、「座り」セッティングだった。
そうか、ソロだから座って歌うのもありかな…と思って一度座ってやってみるが、マー声が出ない。
たまらず立つ。長年バンドで立って歌ってきたし、これまでのソロライブでも座ってやったことがないのだから、座っての声の出し方がわからないのだろうと思う。
リハで座りセッティングにしてくれていたのでちょっと気分を変えて座って歌ってみるかと思ってやってみたら全然声の出方に満足出来ず、たまらずスタンディングに。座って歌う人すげー!と思いました。
— アランスミシーバンド ヒデ (@asbhide) 2018年7月27日
リハ終了後も何か落ち着かなくて、塚本駅周辺を歩いて腹ごしらえする場所を探した。
先日バンドで出演した時に閉まっていて入れなかったラーメン屋に入った。なんとなくリベンジした気になった。
いよいよハウリンへ戻ってライブをしたわけだが、結論から言うと自分の持っていた不安はすべて吹っ飛ばされたのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/b4/8348df9fd2d84b2b8d0da0c8063a58ac.jpg)
最も古くから私ひで氏の曲を聴いてくれているだろうと言うファンの方が、当日のFacebookの投稿を見て駆けつけてくれた。
ASBのライブでよく会っていたという二人のファンの人が、この日の私ひで氏のソロライブを見に来て再会し、感激する様子があった。
何年も前の出会いから曲を聴き続けてくれて、この日にわざわざ見に来て涙してくれていた人がいた。
ハウリンバーで働いていた元スタッフの人が、このライブのために来てくれていた。
初めて見たという人が、「本当に感動しました」と声をかけてくれた。
たまたま通りかかったというテキサス州オースティンから来たというアメリカ人が、ずっと動画を撮ってくれていた。
そして何より、
あまたの音楽を現場で聴き続けているハウリンバーのT氏が「僕はアランスミシーの曲と樫本さんの歌声が好きすぎる。マンスリーでやろう!」
と言ってくれた。
これは相当吹っ切れた。ぐずぐず悩んでいた自分が恥ずかしかった。
聞いてくれる人がいるのなら、いつまでもやれる限りやろう。と思った。ソロをやる度に思うが、これほど強く思った夜は無い。
T氏が言ってくれた「アランスミシーバンドの曲」という言葉は実は目から鱗だった。
これまで、ソロでやるというと、「自分が書いた曲を一人で演奏している」と思っていたのだと思う。自分が作曲している時の、「ひで氏の曲」の段階の曲をやるイメージを持っていた。T氏の「アランスミシーの曲」という言葉で、自分が今夜やった一つ一つの曲はすべて、「自分が生んだアイデアを4人で形にした曲」なのだということに改めて気づかされた。このバンドでなければ「こうはならなかった」という曲ばかりだ。そう思えば、自信を持って披露できる。
この夜関わってくれた皆さんに感謝しつつ、
忙しくなりそうだなと思った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます