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あみの3ブログ

135 増山城址@富山県砺波市 令和元年(2019)10月21日 

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【歴史】
築城年代は不明だが、文献によると南北時代には前身とされる和田城が存在していた。当時の越中守護は桃井氏、斯波氏を経て畠山氏の世襲となり、その家臣の神保氏が守護代として戦国時代には実質的支配者となった。
神保氏は、上杉謙信の越中侵攻を増山上に籠城して一度は撃退するも、再侵攻により落城。その後、織田信長の越中侵攻で佐々成征の手に落ち、豊臣政権下では前田氏の所領となるが、慶長年間(1596~1615)に廃城となった。

【縄張り】
増山城は北西に一の丸、最高所に広大な二の丸があり、二の丸の北東には空堀を挟んで安室屋敷と呼ばれる曲輪があった。城の中心は二の丸であり、二の丸の北東には三の丸が、南側には無常と呼ばれる曲輪が配置され、二の丸の防御を固めていた。二の丸の周囲には幾重にも空堀が掘られ、北東には隅櫓(櫓台)や場内で唯一の石垣も築かれていた。

【主な遺構】
一の丸、二の丸、三の丸、池之平等屋敷、馬の背ゴ堀など

【見どころ】
和田川が天然の外堀となっており、また4本の尾根を切った深さ10メートルにも及ぶ堀切りが300m以上も続いている。中心部は二の丸を主郭として全方位に曲輪を配している。二の丸には城内唯一の石垣が残り、また攻撃拠点である隅櫓が北東と南西に設けられているのもいかにも戦国の城である。



砺波市教育委員会作成ガイドブックより転載


一部拡大、、、立体的なイラストなので元の姿が分かりやすいですね。





◆増山本陣が整備されている(100名城スタンプ設置)
この駐車場に車を停め徒歩でスタート


◆和田川発電所に向かうと「増山城址」の案内看板がある


◆ダムから見える増山


◆登り口には「冠木門」が整備され、案内板も設置されている






大手口 F郭
城の表門で追手ともいう。
北からのルート(和田川ダム側)の道にあり尾根を切断し敵の侵入を防ぐ空堀がある。
 

柵が再現され往時を忍ばせる。


馬の背ゴ(E廓)
L議型の平垣面と土塁が残っていて、北からの防御を担っている。


無常
二の丸から南に延びる尾根を改変したもの。
城中心部の南側にあり、堅固さを見せつける役割があったと考えられる。


又兵衛清水
本丸北川谷間に霊水の湧出を家臣又兵衛が発見し、歴代城主の飲用水としたと伝わる。


今も湧き出ている


鐘楼堂 (再現)
非常時にこの鐘楼の半鐘を合図に城兵を糾合したと伝えられる。城内で最高所124m。


二の丸
主郭(本丸)と考えられる。長大な堀切によって防御されている郭であるため主郭に位置づけられる。


三の丸
オヤシキとも言い、安室屋敷の東に位置する。周囲を堀と切岸に囲まれており、虎口は馬洗い池に面した西側にある。



一の丸
一の丸、二の丸という呼び方は城下に近い順番との見方があり、本来本丸の位置づけと異なるというのが通説。
枡形との記録があり、城の入り口にあって敵を迎撃する空間。


一の丸正面登り口
急で危険なので柵で通行止めされている。


一の丸からは正面登り口や、七曲からの上り道、和田川ダムからの上り道の、二つの道筋がが見渡せる要衝。


一の丸から砺波平野


高岡守山城も視界にできる


馬洗い池
山間の清水を利用した池で、歴代城主が馬に水を汲んだと伝えられる。
南北39m、東西7~15mの池である。城内にはいけと井戸があり、湧水が豊富であるため籠城戦においても飲料水に不自由しなかったと考えられる。


安室屋敷跡
「安室」とは家督を嫡子に譲って隠居した人の住居を意味したといわれている。
縄張りを見ると二の丸と最も親密な関係がある。
北川から東側にかけ土塁が残り、L郭とは堀切によって隔てられている。


安室屋敷登り口


城内唯一の石垣跡


大きな石が見える



この日歩いた工程図
黒線は往路、青線は復路です。
訪れた日は数日前に降った雨で粘土質の地盤は水分を含み滑りやすく危険であった。
また雑草などが生い茂り素人には「空堀」や「土塁」の形状が分かり難くて見逃してしまった。
特に「本丸」の位置が明記されていないため、「鐘楼堂」「二の丸」から絵地図にある「増山」をめざして迂回したため途中で道に迷い足を滑らせたりして危機を感じたが、幸いにも「馬洗い池」に出ることができた。
「安室屋敷跡」からさらに奥に進みたかったが、路が狭く草木が生い茂っていたため恐怖心で引き返す(;^ω^)
一旦「又兵衛清水」まで戻るも「本丸」が気にかかりもう一度「安室屋敷跡」へ向かうもやはり確認できず戻る。

これで下山するつもりだったが、「一の丸」を観察していないことに気づき正面登り口まで来るも通行止め。ここからの迂回ルートの表示が無いので困惑。
「石垣」まで戻り絵図を頼りに右折してようやく「一の丸」にたどり着く。
今回の行程で唯一展望の効く場所にきて下界を見渡し往時を忍ぶ。
「一の丸」イコール「本丸」ではなく、ここでは城下町から近い順番に番号をつけたそうで、見晴らしはいいが敵が攻め上る最前線でもある。

下準備なしのぶっつけ本番、山歩きには事前の情報と準備は重要ですね。





※参考資料
攻城団→こちら

国史跡増山城址→こちら


【増山城】
《軍神上杉謙信と戦った堅城》



名称(別名);ますやまじょう(和田城)
所在地;富山県砺波市増山
城地種類;山城
標高/比高:124m/70m
築城年代;貞治元年(1362)以前
廃城;17世紀初頭
築城者;二宮円阿
主な城主;桃井氏、斯波氏、神保氏、上杉氏、織田氏、佐々氏、前田氏、中川氏
主な改修者;前田氏
文化財区分;国指定史跡
近年の主な復元等;冠木門
遺構;削平地・切岸・堀切・竪堀・横堀・土塁・井戸・石垣
※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ

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