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令和3年1月豪雪(仮称)の悪夢が冷めやらぬ1月末、災害級の寒波再来との予報で各方面は警戒を強めたが、結果として大きな被害にならなくて済んだ。
この記録的な大雪を「記録せずにおくものか」との想いで、雪を頂いたお城の写真撮影に行ってまいりました。
【富山城の雪景色】
富山市は35年ぶりの積雪1メートル超えで、ナント!125㎝を記録しました。不要不急の外出は避けましょうと言っても、既に雪で閉じ込められており家から一歩も出られなかった(;^ω^)
あれから2週間、富山市の積雪は39㎝(31日12時時点)にまで減りましたが、まだまだ真っ白な世界です。
富山城址公園駐車場横の「千歳御門」
黒っぽい木造の門に、降りしきる白い雪がクッキリと映り、降雪の激しさを感じさせます。
その千歳御門から「搦手門」に繋がる石垣に、雪が吹き付けモノトーンの世界です。
写真では右手奥に隅櫓が建っているようにみえますが、実際は「佐藤美術館」の建物です。
枡形形式の搦手門は、本丸の裏門にあたり、東出丸への出口でした。
この本丸搦手北石垣の東面には、山形に布積みされた江戸時代初期「寛文期」の石積がみられます。
お城のほとりを流れる「松川」は築城当時、北と西の守りを固める天然の要害「神通川」でしたが、たびたび氾濫し甚大な被害が発生していました。
この橋の礎石に石垣の石が転用されているそうです。
本丸、千歳門方向から見た天守
本丸広場に降り積もった雪と白壁の天守、僅かに見える屋根の黒い畝瓦が輪郭をみせる。
越中の守護代「神保氏」と、信長の命で越中支配を行った「佐々成政」の戦国期まで富山城は土塁と堀の「土の城」でしたが、成政が秀吉によって敗退すると破却され城の機能は完全に失われました。
その後成政に代わって越中支配をした「前田利長」が居城とし富山城に入りますが、父利家から家督を相続し金沢へ戻ります。
その8年後、隠居した利長は富山に戻り富山城を「隠居城」として本格的に整備しました。
大がかりな石垣など加賀前田家の総力を挙げての城造りが始まったのです。
時代は下り、利長の跡を継いだ前田利常は隠居に際し家督を嫡男光高に譲るとともに、次男の前田利次に富山藩10万石を、三男の前田利治に大聖寺藩7万石を分封。
越中4郡(射水郡、砺波郡、婦負郡、新川郡)の内中央部に位置する婦負郡1郡が富山藩として立藩され、以来幕末まで13代続いて明治維新を迎える。
富山藩になってから本丸南東隅の土塁上に天守閣を作る計画が立てられました。幕府からの許可には石積みの天守台も織り込まれましたが、結果的に天守台の盛り土造成まではしたが石垣を築くことは無かったし天守閣の建築も行わなかったことが発掘の結果から裏付けられたそうです。
現在の天守は昭和29年に開催された「産業博覧会」に併せて犬山城や彦根城をモデルに造られた「模擬天守」で、「郷土博物館」として富山のシンボル的役割を果たしています。
その際、天守台石垣として改修するため「鉄門石垣」にあったV字型の階段(合坂)を取り壊し当初の構造を変えてしまいました。
この「合坂」は鉄門石垣上に築く予定だった二階櫓に登るための階段でしたが、結局「三間藥井門形式」の「鉄御門(くろがねごもん)」が建てられました。
合坂は堀に面した石垣に現在もみられます。
かつて本丸南側の二の丸には西側に虎口が置かれ「二階櫓門」形式の入り口とされていました。富山藩時代で唯一石垣上に櫓建物が設置されたところです。
大火で焼失し幕府に修理願を提出した際の絵図から、石垣の角石には鏡石クラスの大きさの縦長石が組み込まれ天端は切り石で整えられていたそうです。
この特徴は、金沢城の大手門である「尾坂門石垣」の鏡石の置き方に似ており、同じ石工集団「金沢穴生」によって設計されたことを裏付けています。
写真は「金沢城尾坂門石垣」です。
富山城の石垣で最も目を引くのは「鏡石」の存在です。石垣に組み込まれた巨石(鏡石)は藩主(城主)の権力を示すものとされています。
前田利長が慶長10年(1605)頃に築き、富山藩初代藩主「前田利次」が寛文元年(1661)ころ現在の形に積み直したと考えられています。
鏡石は大手筋の通路面に6個の巨石が配置されています。
最大の鏡石は縦.2.8m横2.7mの方形のものです。
また堀に面した西側石垣の鏡石は底辺が小さく上辺が大きい「逆三角形」のような形で、表面積は約3畳、推定重量約6トン。
推定4m以上の川原石を4枚以上に割って使っており、そのうちの1つは天守下の石垣の鏡石として天地を逆にして使われています。
この逆三角形の形をした鏡石とそれを取り巻く石の配置は「陰陽五行説」の原理に基づいているそうです。縦石と横石を一つの面に組み込んで陰と陽の和合を表すことが、石工衆「金沢穴生後藤家」の秘伝書に書かれているそうです。
また5つの鏡石の配置もそのように考えられています。
富山城の石垣の刻印は実に120種以上、400個以上もの刻印が確認されています。
富山城、高岡城、金沢城の3城では11種類の刻印が共通しています。
本丸鉄門石垣には星形の大型刻印があります。星形は陰陽道において悪霊を封じ込める呪文として使われ、裏鬼門を守る役目があったと考えられます。
写真は令和元年11月撮影、堀に面した石垣の隅部にあります。
同拡大写真、天端石から8個目と15目(半分水没)規則性を持って配置されている。
同じ角度で当日撮影
大手土橋の立ち木に積もった雪と天守
一瞬の晴れ間
安政5年の飛越地震で大手土橋も崩れてしまったそうです。
やはり青空に映えますね~
堀の水に浮かんで見えます。
旧大手門から二の丸を経て本丸に至る大手道には現在「富山市民プラザ」や「富山国際会議場」などが並び、市内電車の「ライトレール」が走る。
黒色や赤色のセントラムの方が映えるのだが、、、(;^ω^)
♪サービスショット♪
富山城とライトレール「セントラム」図柄のマンホール蓋(富山市民プラザ付近歩道)
令和二年から提供開始となった御城印と缶バッチ
販売は「富山市まちなか観光案内所」(城址公園千歳御門の隣)
※参考、、、富山城ものがたり(富山市郷土博物館刊行)
富山市埋蔵文化センター「富山城研究コーナー」HP→こちら
【富山城】
《加賀百万石前田氏の分家の居城となる》
名称(別名);
所在地;富山市本丸
城地種類;平城
築城年代;天文12年(1543)ころ
築城者;神保長職
主な城主;神保氏、佐々氏、前田氏
文化財区分;
近年の主な復元等;
天守の現状、形態;2017年内部資料館リニュアル
※出典、、、続日本100名城 公式ガイドブック・日本城郭協会監修(学研)
地図;
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